【38冊目】ラッセル結婚論バートランド・ラッセル著安藤貞雄訳
【諸々】
・イギリス人思想家のラッセルが記した本。思想家、なるほどそういう職業もあるのか、と読了後に表紙を読んで思った。自身の人間観を三部作で記した人だが、その思想はその広範さと思想であるが故に広く受け入れられ易いのだろう。
・結婚とは何か、ということを、その歴史から現在の状況、そして将来どのようになっていくであろうか、ということを記しており、論とするために必要な項目を網羅している印象。
・全般についていえるが、ラッセルは、社会課題を解決するために社会構造が成立しているという観点から、社会が成り立っていると考えている節がある。欲望からもまた社会は成り立つという観点がない気がする。例えば、⑦などはそうだろう。
【気になったところ抜粋&感想("→"以降)】
①P12 人間の間では、父親の協力は、子供にとって生物学的に非常に有利である。不安な時代や、荒っぽい人々の間では、特にそうだ。しかし、近代文明の発達とともに、父親の役割を次第に国家が肩代わりしつつあるので、少なくとも賃金労働者階級では、父親は遠からず生物学的な有利さを失うかもしれない、と考えてよいふしがある。
→同様の発言が幾度も見られるが、対社会的見地から見れば妥当だが、子供や母親の中にも力は見られるので、それを抑制する働きについての視点がない。それを担う者についての記述がない限り、家における子供の成長に対して必要な役割が欠損するのでこの思想はあたらないだろう。
②P43 かなり厳格な倫理によって抑制されない男性は、ともすれば房事過多に陥りやすい。それで、ついには、疲労と嫌悪の感情が生じてくる。そして、この感情は、自然に禁欲主義的な革新につながっていくのである。
→一般論に言い換えると、社会システムが構築されることにより、望んでいたものが安定して提供されるようになると当然過多も生じる。すると、それを(自己)制御しようという発想になるのは至極当然だろう。それは即ちプロテスタンティズムの思想そのものなのではないだろうか。そう考えたとき、プロ倫の内容の理解はかなり変わったものになるのではないだろうか。禁欲主義との違いがよく分かっていないが、キリスト教の変遷を学ぶことは貨幣資本主義のなりたちを理解する大きな助けになりそうな気がしている。
③P46 「家族は結婚に根ざしているというよりも、結婚は家族に根ざしている。」この見解は、キリスト教以前の時代には、自明の理であったであろうが、キリスト教出現以降は、強調する必要のある重要な命題となった。キリスト教、とりわけ聖パウロは、まったく新しい結婚観を導入した。即ち、結婚は、主として子供を生むためにあるのではなく、私通の罪を防ぐためにある、というものである。
聖パウロの結婚観は、いたれりつくせりと言ってよいほど(leaves nothing to be desired)明確に、「コリントの信徒への書簡その一」に述べられている。コリントのキリスト教徒は、継母と不義をする奇習があったように思われる (同書第五章第一節)。そこで、聖パウロは、この状況は、断固として対処する必要があると感じた。聖パウロが述べている見解は、次のとおりである。(同書第7章第1-9節)
→コリントの信徒への手紙は、キリスト教的結婚式を執り行った日本人なら(恐らく)知っているのではないかと思うが、その結婚観がそのようなものであったのだとしたら大変驚いた。確かにキリスト教にはそのような発想があるかもしれないと思った。旧約聖書と新約聖書、その二つの存在が大変に大きいのではないか。この点については更なる勉強が必要であるが。
④P48 聖パウロの考え(思考/思索)の中では、私通(姦淫)が舞台の中心を占めており、彼の性倫理は、すべて私通(姦淫)と結び付けられて取り決められている(整理されている)のである。それは、あたかも、パンを焼く理由は人びとがケーキを盗まないようにするためである、と主張するようなものである。
→oh,,,
⑤P61 だれであれ倫理上題目について明晰に考えてみたい人には、私は、この点に関してベンサムをまねることをお勧めしたい。そして、非難を伝える語のほとんどすべてには、称賛を伝える同意語があるという事実に慣れたあとで、称賛も非難も伝えない語を使用する習慣を身に着けるようにお薦めする。「姦通」も「私通」も、非常に強い道徳的な非難を伝える語であるから、そういう語を使用しているかぎり、明晰に考えることはむずかしい。
→意図が読めないが、ドイツやフランスの人と違い、ラッセルは文章に不必要なほどの表現を行わない。そのため、大変読みやすい文章になっている。また、不必要に強い表現は、よく政治でみられるものであるが、ほとんどの場合は的確でないし、その表現が故に支持者以外からは聞く耳を持たれない。それでよいのが民主主義というものだが、何とかならないものか。
⑥P142 長年にわたって、なつかしい出来事のかずかずを経て続いてきた夫婦の間柄には、どんなに楽しい日々であろうと、恋愛の始まったころには絶対にありえない豊かな内容がある。価値を高めるのに時がどれほど役立っているかをよく理解している人ならだれだって、このような夫婦の間柄を、新しい恋のためにむざむざすてるようなことはしないだろう。
→ふーむ素晴らしい言葉。
⑦P180 最初の子供が生まれた時に,我が子には(誰も)自分が苦しまなければならなかったような貧乏を味あわせたくない,と本能的に誓ったかもしれない(のである)。そのような決意はきわめて重要なものなので,意識的にくりかえして確認する必要は決してない(のである)。何度もくりかえさなくても,その後の(彼の)行動を支配するからである。これが,いまだに家族がきわめて強い影響力をもっている一つの面(側面)である。
→この、家族を維持したいと考える両親の考えをなくす社会的要因については述べられていない。
⑧P269 思春期は、周知のように、神経障害がよく起こり、普段はいつも分別のある人が、まったく逆になりやすい時期である。ミード女史は,『サモア島の成人』という著書の中で,思春期の障害(変調)はサモア島では知られていないと主張しており,これは性の自由が広く行きわたっているためだとしている(同書p.157)。なるほど,この性の自由は,布教活動のために(サモア島でも現在)いくらか切り詰められつつある。ミード女史が質問した娘の何人かは,宣教師の家に住んでいて,これらの娘たちは,思春期の間は,マスターベーションと同性愛をおこなっただけだがそれ以外のところに住んでいる娘たちは,異性との交渉も持っていた。
→確かにそれは一つの要因ではあろうが、思春期とは親の庇護から脱却する時期であるので、このような不安定さはよく起こり、乗り越えていくべき時期である。
⑨P285 成人の生活の複雑な欲望を生み出している衝動は、二、三の単純な項目のもとにまとめることができる。自己保存のために必要なものを除けば、私には権力、性、親子関係が、おおむね、人間のすることの源であるように思われる。この三のうち、権力が最初に始まり、最後に終わる。
→これら異なる欲求を並べて述べるているのは理解しかねる。権力と親子関係は社会的関係性であり、性は欲求である。
⑩P296 自制それ自体が目的であるとは考えていないし、われわれの制度や道徳的慣習は、自制の必要を最大限ではなく、最小限にするようなものであってほしい、と思っている。
→これは素晴らしい指摘をしている。自制をすることは目的ではないが、自制をしなくてもいいように、自制をするのだ。つまり、近年、日本でも自由が叫ばれて、何でもルールの撤廃が行われている。しかし、特に幼少期に自制をしなかった子供は、大人になってから、永遠に自制をすることとなり、大変な苦労をすることにだろう、と私は残念に思っている面もかなりある。
⑪P305 良い結婚の神髄は,お互いの人格に対する尊敬が存在し,それに肉体的にも,知的にも,精神的にも深い親密さが結びついていることである。それは,男女間のまじめな愛情を,人間のあらゆる経験のうちで最も実り豊かなものにしてくれる。そのような愛は,およそ偉大で貴重なものがそうであるように,それ自体の道徳を要求し,しばしば,大なるもののために小なるものを犠牲にすることを必要とする。
→雑!笑。言うは易し。あーあ、そんなのは分かってますよ、と。(了
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