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友達の親が握ったおにぎりを食べたくなかった

タイトルの通りなんだけど、小学生の頃とか友達の家に遊びに行ったり遠足に出かけた時に友達の親が握ったであろうおにぎりを食べることになる機会って結構あったよね?
断るわけにもいかないから我慢して食べていたタイプの子どもだったんだけど、本当はあんまり気が進まなかったな。
今日ふとそんなことを思い出して、あの心理を解明したくなった。

少し調べてみると同様の感想を持った人は結構いるようで、昔お世話になったトレーナーもよくそんなことを言ってたっけ。
芸能人だと有吉弘行とか田村淳もそうなんだって。彼らは仕事柄、外食や市販の弁当を食べる機会はたくさんあるだろう。僕もそれに関しては全然平気だ。生産者の顔が浮かばなければ別にいい。
あと、他人が握ったおにぎりを食べられない人は綺麗好きや潔癖症だと思われがちだが、僕の場合は綺麗好きや潔癖症とは程遠く衛生観念が小さい頃から死んでるんだけど、それでもやっぱり友達の親が握ったおにぎりには抵抗感があった。テレビとかで、高級寿司店の大将が「これは○○の握りになります」とか言って手で直接鮨を出す感じも昔からあんまり好きじゃなかった。寿司ネタの柔らかくて生々しい身を大将が素手でぶにぶに触る光景を見ると「食べてみたい!」とはあんまりならなかったなぁ。

小学生の頃に参加していた子供会で食事が振る舞われても平気で食べていたけど、「これは○○君のお母さんが全部作ってくれましたよ!」とか、みんなでお礼を言いましょう的な感じで言い出すどっかの親(バカ)が現れると途端に食欲が失せたこともあった。
その情報いらんねん。特に(大変申し訳ないけど)作ったお母さんの容姿が肥満体だったり化粧が濃かったりと、あまり好きなタイプじゃないと余計に食う気失せた。……子どもは残酷。

考えるにこれは衛生観念とはまた別なんじゃないかな。別に企業の衛生面を信用していなくてもコンビニのおにぎりとかは平気だし、落とした食べ物もそんなに気にせず拾って食べちゃうし、東南アジアあたりの外の屋台で売られているサンドイッチとかはむしろかなり食べてみたい。
つまり、人格を持った人間が見えることへの抵抗感なのだ。異国ならいいけど、日本人や日本でという場合、生産者の顔はむしろ隠してくれ。
現代社会では共同体が希薄になり、味方だと認知していない人間も生活圏に多く存在している。その受け入れていないパーソナリティから与えられた食物に対しては、毒が盛られていないか本能的に警戒するのかもしれない。
そう、きっと衛生観念ではなく毒への警戒なのだ。信頼していない人物から自分宛てに手渡された食物というのは相手次第でどうにでもできるわけで、生殺与奪の権を握られている状態が怖いのだ。
生産者の顔が見えないことは、同時に自分のパーソナリティを明かさないことでもある。自分に向けて危害を加えてやろうという計画を相手が立てられない状況への安心感があるから外食や市販の弁当なら平気で食べられるのだろう。

まあ特に結論とかはないんだけど、侍スピリッツってことにするか。侍だから警戒を怠らないんだよね。なんちて。ではまた!

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