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クリスチャンをシンプルに考えてみる

究極的にシンプルな状態を考えてみると、私たちが最優先にするべきことが見えてきます。究極的にシンプルなクリスチャンを考えるなら、何を優先的に伝え、どのように成長を助けていけばいいかと言うことがより明確になるでしょう。

そもそも、クリスチャンとはどのような人のことをいうのでしょう? 多くの場合、その人がクリスチャンかどうかを判断する材料は、「正統的な教会で洗礼を受けたかどうか」、「教会に通っているかどうか」、「什一献金をしているかどうか」、「奉仕をしているかどうか」など、目に見えて判断しやすい事柄になっていると思います。

では、上記の条件を満たしていればクリスチャンと言えるかというと、それは違うように思います。クリスチャンにとって本当に大切なのは、「キリスト信仰があるかどうか」ということだからです。

では、キリスト信仰とは何でしょう? 意外とここが難しいところです。『「私は信じます」と言うこと』だけでは十分ではないからです。信仰のことについて、イエスさまはこの様に言っています。

「あなたがたは彼らを実によって見分けることになります。茨からぶどうが、あざみからいちじくが採れるでしょうか。良い木はみな良い実を結び、悪い木は悪い実を結びます。(中略)わたしに向かって『主よ、主よ』と言う者がみな天の御国に入るのではなく、天におられるわたしの父のみこころを行う者が入るのです。(マタイ 7:16-17 、21)」

「信じます」と言う人のすべてに本当の信仰があるとは限らないことが、ここでは示唆されています。そして、私たちはそれを「実」によって見分けることができるのです。

ヤコブの手紙には、このような記述もあります。

「 私の兄弟たち。だれかが自分には信仰があると言っても、その人に行いがないなら、何の役に立つでしょうか。そのような信仰がその人を救うことができるでしょうか。兄弟か姉妹に着る物がなく、毎日の食べ物にも事欠いているようなときに、あなたがたのうちのだれかが、その人たちに、「安心して行きなさい。温まりなさい。満腹になるまで食べなさい」と言っても、からだに必要な物を与えなければ、何の役に立つでしょう。同じように、信仰も行いが伴わないなら、それだけでは死んだものです。(ヤコブ2:14-17)」

とは言え、もちろん、救いは「行い」によって受けるものではありません。

「人は律法の行いとは関わりなく、信仰によって義と認められると、私たちは考えているからです。(ロマ 3:28 )」

と書かれている通りです。しかし、本当に信仰があるなら、その信仰には行動が伴うはずだというのが、ヤコブの言いたかったことでした。そして、行動として現れた結果によって、その人の信仰は表されるということです。

「なんだ、やっぱり目に見えることで判断するんじゃないか」と思うかもしれませんが、何を見て判断するかということが重要です。イエスさまはこの様にも言っています。

「あなたがたは地の塩です。もし塩が塩気をなくしたら、何によって塩気をつけるのでしょうか。もう何の役にも立たず、外に投げ捨てられ、人々に踏みつけられるだけです。あなたがたは世の光です。山の上にある町は隠れることができません。また、明かりをともして升の下に置いたりはしません。燭台の上に置きます。そうすれば、家にいるすべての人を照らします。このように、あなたがたの光を人々の前で輝かせなさい。人々があなたがたの良い行いを見て、天におられるあなたがたの父をあがめるようになるためです。(マタイ5:13-16)」

判断材料は、牧師やクリスチャンにとって分かりやすいものではなく、世界にどのような影響を与えるかということによるのです。とは言え、地の塩、世の光として生きる生き方は、私たちが一生懸命善い行いをして、人々に見せる行動ではありません。私たちが信仰を持って生きるとき、何をしていても滲み出してくるものです。それが私たちがいるコミュニティを変えていくし、周りにいる人たちがそれを通して神さまを見たり、体験するようになるのものなのです。

では、どうすれば、クリスチャンがもっと地の塩、世の光として、影響力を発揮することができるのでしょうか?どうすれば行動に繋がる信仰を育むことができるのでしょう?

カギとなるのは、神さまとの関係です。知識を蓄えたり、訓練を受けることも助けにはなりますが、それだけでは決定的な力にはなりません。無理やり身に着けた知識や訓練は、むしろ人々を律法主義、行い主義にしてしまいます。内側から湧きだしてくる平安や喜び、愛したいという願いがあってこそ、知識や訓練は活きてくるものなのです。

神さまとの関係を普段から深く築いている人は、神さまが行動を促し、そのための力を与えて下さるので、自主的に行動をします。そして、与えられている使命を全うするために自ら必要なことを学び、技術を身に着けていきます。

ここまで来ると、教会がどのような部分に焦点を当てる必要があるかと言うことが見えてきます。神さまとの関係を築き、体験し、実践し、確認し、味わう機会を最優先に提供することです。そのような神さまとの関係を大切にする人たちが、互いにその歩みを励まし合い、分かち合い、教え合うことで、その人はクリスチャンとして成長していくことができるのです。

まずは、神さまとの愛を深くすることに働きの焦点を定めること。そうすれば教会の働きはシンプルになります。大人数の集まりは必要としませんし、深い知識や何年にも渡る訓練を受けなくても始めることができます。まずは、簡単に始められることが大切で、他に必要なことは必要に応じて学んでいけばいいのです。

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