オーガニックチャーチの働きの中心
神さまとの関係を築くクリスチャンとは?
神さまとの関係を豊かに築くクリスチャンとは、どんな人たちでしょう。
まずは、神さま、イエスさま、聖霊さまが大好きなクリスチャンになることです。地獄に行くかもしれないという恐れや、「正しいことをしなければ」という義務感では、一時的な爆発力はあっても、動き続けることができないからです。
恐れや義務感は、福音とは正反対の性質をもつものです。言葉でどれだけ福音を伝えていても、方法がカルト宗教的であれば、組織は大きくなるかもしれませんが構造的に矛盾が生じて、内部崩壊してしまいます。
一方で、好きなものは自ら進んで学ぶし、他の人たちにも伝えたくなるものです。ゲラサの墓場で癒された人や、サマリヤで心を解放された女は、そのような積極性によって地域の人々に福音を広げました。継続的に力を発揮できるのは、喜びや感謝、そして使命感から来る積極性なのです。
ここで気をつけておかなければならないことがあります。それは、オーガニックチャーチの目的は、キリストの弟子を生み出すことにあるということです。その目的を見失うと、喜びや感謝があったとしても、集まって楽しむだけの集会になってしまったり、単なるイエスさまのファンが生み出されることになってしまいます。
イエスさまファンは、毎週の集まりで交わりを楽しみ、喜んで賛美歌を歌い、説教を聞いて涙を流しますが、実際には何も変わろうとはしません。根本的には神さまに何かをしてもらうことを考えていて、思い通りにならないと、それを神さまや人々のせいにして怒ったりします。結局のところ、自分の幸せのために神さまを利用しようとしているのです。もし、このような状態に陥ってしまったら、なるべく早く出ることができるように助けましょう。
キリストの弟子とは?
では、キリストの弟子とはどのような人たちでしょうか? それは、イエスさまと共に歩み、イエスさまから学び、イエスさまに似た者となっていく人たちです。
「私たちはみな、神の御子に対する信仰と知識において一つとなり、一人の成熟した大人となって、キリストの満ち満ちた身丈にまで達するのです。(エペソ 4:13)」
イエスさまと共に歩んだり、学んだりすることはともかく、イエスさまに似た者になんて、なれるのでしょうか?
私たちは、本来「神のかたち」として創られていたはずです。神さまに背いて罪人となった私たちはその型から外れてしまいましたが、イエスさまがそのための道をもう一度作ってくださいました。私たちは、聖霊が内に住んでくださることによって、神の似姿として生きることが可能になったのです。
「しかし、わたしは真実を言います。わたしが去って行くことは、あなたがたの益になるのです。去って行かなければ、あなたがたのところに助け主はおいでになりません。でも、行けば、わたしはあなたがたのところに助け主を遣わします。(ヨハネ 16:7 )」
助け主である聖霊によって、私たちはキリストの身丈に近づくことが可能なのです。しかし、そのためには信じたり、大好きになるだけでは十分ではありません。イエスさまのあこがれがどれだけ大きかったとしても、自分の力に頼る限りは、絶対にそこにたどり着くことはありません。キリストの弟子として生きるためには、条件があるのです。
「それからイエスは弟子たちに言われた。「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負って、わたしに従って来なさい。(マタイ 16:24)」
これは、自分の思い、願い、感情ではなく、神さまの視点で見、神さまに従って生きる生き方です。簡単なことではありませんが、それをするだけの価値がある、素晴らしい生き方です。
私たちが本当にキリストのからだとして機能し、世界に神の国を広げようとするなら、一人一人がキリストの弟子として生きていく必要があるでしょう。だからオーガニックチャーチの働きの中心は弟子育成の働きとなるべきです。私たちは、キリストの弟子となれるよう、互いに学び合い、教え合い、励まし合っていくべきでしょう。イエスさまもこのように命じています。
「あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。父、子、聖霊の名において彼らにバプテスマを授け、わたしがあなたがたに命じておいた、すべてのことを守るように教えなさい。(マタイ 28:19-20)」
「大宣教命令」と呼ばれるこの命令の中で、イエスさまは、「教会を作りなさい」ではなく、「弟子を作りなさい」と言っています。そして、「教会はわたしが建てる」と言ったのです。
「わたしはこの岩の上に、わたしの教会を建てます。よみの門もそれに打ち勝つことはできません。(マタイ 16:18)」
キリストの弟子が集まり、キリストの体として機能するのが教会です。それはイエスさまが建て上げるものであり、その時にこそ、ハデスの門を打ち砕く力を発揮与えられているものなのです。