「一タラントで十分」の信仰
半分水が入ったグラスを見て、「まだ半分ある」と思う人と「もう半分しかない」と思う人がいるという話は聞いたことがあると思います。この違いは神さまから与えられているものの感じ方にも影響するなぁと思いました。
同じだけの祝福を受けていても、ある人は「こんなに祝福を受けた」と感じ、別の人は「自分は祝福なんてほとんど受けていない」と感じています。少しの祝福でも、たくさんの祝福に感じられた方が幸せなのは言うまでもありません。
神さまから受けている才能や賜物に関しても、同じことが言えます。聖書の中に有名なタラントの話があります。
お金持ちの主人は、あるしもべに5タラント預け、次のしもべは2タラント、最後のしもべは1タラントを預かります。僕が知る限り、多くの日本人は1タラントのしもべに共感し、同情します。確かに、このたとえ話では実際に比べることができるお金の単位です。でも考えてみてください。
1タラントは現代の金額にしたら6千万円です。豊かになってしまった日本人には現実的にも思えてしまう額ですが、何も持っていなかったしもべにとって、6千万円だろうが3億円だろうが、本来はあまりに大きすぎる祝福だったのではないでしょうか。
このたとえ話は、「受け取ったタラントとそれを預けた主人をどのように感じるか」が重要なポイントであるように思います。
5タラント、2タラントを受けたしもべと違い、1タラントのしもべは「1タラントでは少ない」と感じ、自分に1タラントしか預けなかった主人は「不公平でケチだ」とでも感じていたようです。このしもべは、「1タラントしかない」あずかったタラントを、土の中に埋めて隠してしまいました。そうすれば、それを失って主人から叱られたり、文句を言われることもないと思ったからです。
この話の最後で、このしもべは結局主人に叱られることになります。なぜでしょう?このしもべの行動は、「1タラントを失わないようにしたこと」なのではなく、「預けられた1タラントを埋めてその価値をゼロにしてしまったこと」だからです。
あずけられたのが同じ1タラントでも、「俺には1タラントでも十分あいつ等と渡り合えると思われているんだ。ご主人様、信用してくださりありがとうございます!」なんて考える人だったら、このような行動にならなかったかもしれませんね。
「1タラントしか与えられていない」と思いがちな僕たち日本人も、このしもべと同じようにも感じ、行動してしまう傾向があります。そんな私たちはどうしたらいいでしょう?
「そんな風に感じるのを辞めて、1タラントの大きさを考える」ことができればいいのですが、そんな簡単なものではありません。僕たちは、「半分しか水がない」と感じてしまう悲観的な傾向を持った日本人なのですから(笑)。
「言われていることは分かるけど、自分はそんな風には感じない」というのが実際のところではないでしょうか? 僕たちは、いっそそんな僕たち自身を受け入れてしまった方が良いのだと思います。そんな僕たちさえも、神さまは憐れみを持って愛し、救い主を送ってくださったのですから。確かに出来は悪いかもしれませんが(笑)、出来が悪い子ほど親にはかわいかったりするものです。私たちは放蕩息子なのです。
そのうえで、自分には与えられているものを少なく見積もる傾向があるということをよく理解しましょう。「あ、自分は水を少なく見積もってしまいがちな人間だったな。実際は自分の感覚よりも2割増しくらいなのかも」と、そんな風に考えられたらいいですね。これは「どう感じるか」ではなく、「どう考えるか」という恣意的な話なので、実感が伴わなくても問題ありません。ただ、2割増しに考えてみる癖をつけられたらいいなというだけのこと。そして、実際に与えられているタラントが実は半タラントや四分の一タラント、あるいはそれすらなかったとしても、本当は僕たちに何の問題もないのです。僕たちは、もはやしもべではなく、父といつもともにいる息子とされたのですから。