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なぜ、日本には福音が広がらないのか?

「なぜ、日本には福音が広がならないのでしょう?」
この問いは、いつも私たちの中にあり、たくさんの理由があるだろうと思います。

「日本人は○○だから福音を受け入れない。うなじの堅い人々なのだ」と言う人たちもいますが、その考え方にはあまり意味がありません。それが本当だとして、日本人を変えることはできないのですから。

他人を変えることはできませんが、自分が変わることはできます。私たちは、受け入れてくれない人のせいにするのではなく、伝えることができていない自分たちの問題を自覚して、それを改善していくべきです。

このシリーズでは、私たちが福音を伝える力を持った教会になる方法として、「オーガニックチャーチ」という考え方を紹介していきます。

*  *  *

ナザレのイエスという人は何者なのかといううわさ話が広がったことがありました。「バプテスマのヨハネだ」とか、「エリヤの再来だ」と言われる中で、イエスさまは弟子たちに「あなたがたは、わたしを誰だと言いますか」と質問します。

イエスさまの一番弟子を自認するシモン・ペテロは、「あなたは生ける神の子キリストです」と答えました。ここからは、聖書のことばの引用です。

すると、イエスは彼に答えられた。「バルヨナ・シモン、あなたは幸いです。このことをあなたに明らかにしたのは血肉ではなく、天におられるわたしの父です。そこで、わたしもあなたに言います。あなたはペテロです。わたしはこの岩の上に、わたしの教会を建てます。よみの門もそれに打ち勝つことはできません。」(マタイの福音書16:17-18)  

ペテロが答えた、「イエスさまこそ生ける神の子キリストです」という信仰告白を岩の土台として、イエスさまが建てたのが教会です。そしてイエスさまが建て上げた「教会」は、よみの門も打ち勝つことができないほど、力強いものなのです。

多くのクリスチャンは、悪魔が支配するこの世の価値観から逃れ、身を隠すために教会を使っているように見えます。教会の集まりを第一とし、「この世的な」人々を救い出しては教会に連れてきます。まるで、悪魔の力から守る砦かシェルターのようです。

でも、イエスさまは、「よみの門も打ち勝つことができない」と言ったのです。ここで守る側に立っているのは、教会ではなく、「よみ」つまり悪魔の側だということに気づかないでしょうか?

イエスさまが描く教会の姿は、立派な建物を建て、世の中の価値観から離れて定められた曜日に集まり、ひっそりと歌い、聖書の話をする集まりではありません。悪魔が支配するこの世に飛び出して行き、悪魔の力を打ち砕き、人々を支配から解放して、その勢力を広げていく神の国の表れです。

イエスさまは、このように言いました。

あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。父、子、聖霊の名において彼らにバプテスマを授け、わたしがあなたがたに命じておいた、すべてのことを守るように教えなさい。見よ。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたとともにいます。」(マタイ28:19-20)

「行って」と言われているのに、私たちは自分たちの領域を作って、そこに人を入れ込もうとしています。これは、命じられていることとは少し違うのではないでしょうか?

また、このようにも言っています。

あなたがたは世の光です。山の上にある町は隠れることができません。
また、明かりをともして升の下に置いたりはしません。燭台の上に置きます。そうすれば、家にいるすべての人を照らします。
このように、あなたがたの光を人々の前で輝かせなさい。人々があなたがたの良い行いを見て、天におられるあなたがたの父をあがめるようになるためです。(マタイ5:14-16)

多くの教会は、教会に人を集めることに夢中になり、教会の奉仕だけをさせ、教会の中で伝道集会をします。その有様は、まるでイエスさまが言われている「升」のようで、クリスチャンたちの輝きを教会の中に閉じ込めているようにさえ思えます。

私たちは世の光であり、教会は本来ハデスの門を打ち砕く力を持ったものです。しかし、私たちはその力を活かすことができていません。それでは、福音が浸透していかないのも当然のことかもしれません。

なぜ、教会はこの様な状態になってしまったのでしょうか? それは、国民のほとんどがクリスチャンであることが当たり前の世界で育まれた西洋の教会像を、そのまま受け入れてしまったからです。

国民の大半がクリスチャンとして生まれ、育っていた世界では、定められた日に礼拝を守り、信仰を表現するために歌ったり学ぶ場所が必要とされていました。それは、本当の意味で十分なものではありませんでしたが、当時の環境では間違ったものではなかったと思います。問題は、その教会のカタチが伝統として定着し、そのまま日本に広がってしまったということです。日本人のまじめさと、正確にコピーする器用さが、ここでは災いしたのです。

私たちは教会という建物から出ていき、積極的に世の光となり、神の国を表して、広げていく必要があります。イエスさまと共に、その働きに入っていくとき、そこにはよみの門を打ち砕く力が伴うのです。

そのような働きにふさわしい教会のカタチはあるのでしょうか? 私たちは、それぞれの環境の中で機能しやすい教会のカタチを探し、適用していく必要があるのではないかと思います。

ここで紹介したいのは、「オーガニックチャーチ」という考え方です。それがあるべき普遍的な教会の姿だとは言えないかもしれませんが、日本に福音が伝わりやすい土台を作るために、参考になれば幸いです。


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