祖母の残した戦争体験を記録した手記 「ある母の道」#4
会社に勤めている従業員が戦争に出征すると、その部守家族に召集手当が毎月支給されていた。
会社が出していたのか国が支払っていたのか私は知らない。
私しの夫は帝国人絹岩国工場に務めていた。錦河の川口に大正十五年に建設され、昭和二年から操業を開始した会社で人糸を生産していた。その支給される手当で生活をしていたが、何せ四人の子供を抱えての生活なので楽になく、明けて十七年の四月五日より山陽パルプへ務め始めた。
会社での仕事は、針葉街の木、特に松の木を溶かしパルプを作るのですが、一間の長さに切った松の木を山から引出し、船やトラックによって運ばれて来るのですがこの材木には皮がそのままくっついています。皮はパルプにならないので、皮剥ぎ鎌なる刃物で材木の皮をきれいに剥ぎとる仕事でした。
この仕事は骨のおれる作業でした。
仕事場は屋根やテントの下でするのではなく雨が降ればカッパを着け、暑い炎天下の日は麦わら帽子を冠り首に掛けている手拭きで流れ落ちる汗をふくのです。大きなの小さいの色々材木があるが地面に転がした状態で皮剥ぎをするため腰をかがめての仕事になる、そんな姿勢で長時間続けていると腰が痛くなるので背伸びをしなくてはたまらなくなります。
一日の仕事の終りを告げるサイレンが鳴ると、今迄皮を剥いでいた材木の上にドッカリ腰をおとしたものです。
仕事に出掛けるとなると子供の子守を心配しましたが、幸い隣の義姉が引受けて下さいました。薫は男の子でじっとしていないので私しが一緒に仕事場に連れて行った。二人の小さな子供にミルクやおかゆを与えてもらい自分の乳を飲ますのは夜だけだった。恵子、栄子を左右にして寝るのだが片側が泣くとその方を向いて乳を飲ます、反対側の恵子が難ずかると、こんどはそちらに向いてあやすなどし、二人一緒に泣きだせば座って両手に抱きかかえ両方一緒に乳を与えるが、昼間の仕事に疲れウトウトして膝から落としそうになりハッとして抱き上げる事も度々のことだった。
大竹海兵団に勤務していた義兄の召集がとけ、以前住んでいた三原に帰り、又、帝人に務める事になり夫婦は岩国を引き払って行ってしまわれた。
その為、二人の子守をお願いするところが無く一時は本当に困った。幸いに親切な人があったので助かったが、その人は私しの家から畑を隔て百メートル程先に山本さんという子供の居ない夫婦が住んでおられた。その山本のおばさんが「私しで良かったら御守をしてあげますよ」と、声を掛けて下さり、途方に具れていただけに本当にうれしかった。
「そうですネ、全々いただかないとお宅が気兼でしょうから・・・・・」と云われ一人五十銭、二人の子守を一円でお願いする事になった。
隣の義姉には「いいから、いいから」と子守代はことわられ、その心意気に甘え出さずにいたが今度ばかりはそうはいかない。会社からの手当と私しの給料を合わして何と支出の多い事か家賃の五円配給品の支払、今年から幸枝の小学校へ入学でその費用、そんな中での子守代、少々苦しいが私達親子を気ずかっての申し出に大変助かったのが偽りのない気持である。
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