時勢を見る眼―永井荷風『つゆのあとさき』を読む
学生の頃は市谷加賀町や四谷坂町などに住み、勤めは飯田橋だったので、永井荷風『つゆのあとさき』(岩波文庫)の舞台になる市ヶ谷界隈は懐旧の念にたえない。
「文壇の流行児」の清岡進が愛人にしたカフェの女給・君江は、「この年月いろいろな男をあやなした」ほどの魔力をもち、「懶惰淫恣な生活のみを欲している」ような「生れついての浮気者」である。ある夜の君江の行動に怪訝のあまり、清岡があとをつけた道筋をまずは辿ってみた。本村町から女坂、左内坂を巡り、八幡の階段上に出ると、眼下に市ヶ谷見附が見下ろせる。背後にはかつて出張校正に通ったこともある大日本印刷が広大な地所を占めている。急な石段を降りて、新見附から新見附橋を渡り、四番町の外濠公園を過ぎる。一口坂を上り三番町まで歩いてみて、あらためて荷風の健脚を知った。
神楽坂の「石を敷いた路地」に昼間も漂よう風情は忘れがたいが、君江のいたカフェーのある銀座界隈となると、谷崎潤一郎の言う「絵巻物式」に描かれた往時の世相史、風俗史でしかない。たまに作家のお供をしてクラブやバーを覗いたくらいである。谷崎の「『つゆのあとさき』を読む」(中村真一郎編『永井荷風研究』新潮社)によれば、「此の作者が最も肉欲的な淫蕩な物語を、最も脱俗超世間的な態度で書いてゐるところに、――そして、何もむづかしい理窟を云はずに素直に平凡に書き流してゐるところに、――いかにも東洋の文人らしい面目を認め」て、「齢五十を越えてからの作者の飛躍」と称える。
とはいえ荷風は、「名声籍々たる文学者」というか、「今は通俗小説の大家を以て目せられている」清岡を見る鶴子の眼に仮託して、その頃の文壇の風潮を揶揄することも忘れない。鶴子は清岡を「夫」に択んで一緒になったとはいえ、君江のこともあり、今では「名ばかりの夫婦」である。
「思想上の煩悶などは少しもないらしい様子で、その代り絶えず神経を鋭くして世間の流行に目を着け、営利にのみ汲々としているところは先相場師と興行師とを兼業したとでも言ったらよいかも知れない。新聞に連載しているその小説を見れば、今まで世にありふれた講談や伝奇を現代の口語に書替えたまでの事で、忌憚なく言えば少し読書好きの女の目にさえ、これでは殆読むには堪えまいと思われるくらいのものである。」
いかにも痛烈な文学者批判と言うべきか。「文学者の気風も今は一変し、菊池寛の如き者続々として輩出するに至りしも、思返せばまた怪しむに及ばず。」(磯田光一編『摘録 断腸亭日乗(上)』岩波文庫)と、荷風はかねがね文壇の気風を慨嘆していた。「君江は同じ売笑婦でも従来の芸娼妓とは全く性質を異にしたもので、西洋の都会に蔓延している私娼と同型のものである。」として、「これを要するに時代の空気からだと思えば時勢の変遷ほど驚くべきものはない。」とするが、今は一変した「文学者の気風」もまた同列と評するのだろうか。