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愁を掃う帚-成島柳北『柳橋新誌』二編の語釈と寸感Ⅲ

五里霧中はなかなか晴れない。一つ一つ語釈を明らかにして、ようやく周りがほのかに見えてくるが、その先はなお霧中である。おまけに手元が見えた悦びにうかれて、全体の論旨を見失うお粗末を如何ともしがたい。成島柳北『柳橋新誌』二篇の語釈メモと寸感を記す営みもようやく終局だが、未知の表現・語彙との遭遇は絶えることなく、五里霧中の終わりは見えない。 〔78p〕 夙に興き夜はに寝ね 「夙に起き夜半に寝ぬ」は勤勉なことのたとえ。また、日夜、政務に励むことのたとえ。 蟻聚(アツマリ)[ギシ

    • 銀瓶を引く―成島柳北『柳橋新誌』二編の語釈メモと寸感Ⅱ

      成島柳北『柳橋新誌』(塩田良平校訂、岩波文庫)二編の語釈メモと寸感をつづけて記す。語釈の探索には愛用の『新字源』のほか、『漢字辞典オンライン』『コトバンク』などのお世話になった。 〔65p〕 従良(ヒツコム)[ジュウリョウ]芸者・娼妓などが請け出されて、人の妻になること。 盥漱(ウガヒチヨーズ)[カンソウ]手を洗い、口をすすぐこと。身を清めること。 〔67p〕 聒々(ガヤガヤ)[カツカツ]人の声や鳥などの鳴き声の騒がしいさま。 屬(サシテ)[ゾク ショク つ(く)

      • 左袒せず―成島柳北『柳橋新誌』二編の語釈メモと寸感Ⅰ

        一知半解と言うもおこがましいと自嘲しながら、成島柳北『柳橋新誌』二編(岩波文庫)を手にして、初編につづけて語釈をメモし、ときどきの寸感を書き留めた。柳北が二編を著したのは、初編から「既に十有二年」の後、35歳のときである。「世移り物換はり柳橋の遊趣一変して新誌も亦既に腐す矣」というほど、幕府は滅びて明治へ「王政一新して柳橋亦一新」したのである。この続編は永井荷風の「柳北仙史の柳橋新誌につきて」に記すごとく、「柳北が時勢に対する失意と中年の悲哀とを述べた感慨の文字」というには少

        • 木を見て森を見ずの記ー成島柳北『柳橋新誌』初編の語釈メモ帖(抄)

          辞典と首っぴきである。それでも不明のままがある。成島柳北『柳橋新誌』(塩田良平校訂、岩波文庫)は、柳橋という「狭斜の巷」を点描したものだが、それを読むというより、難解語句のサーチに費やす時間のほうが長い始末。1時間に1ページ読み進めるかどうかだが、それもまたゲーム気分で愉しみたい。ただ、復刻版だから、活字が小さいうえに、ところどころ擦れていて読みにくく、眼精疲労に悩まされそうだ。折角なので、めぼしい語釈のメモ帖づくりを思い立った。 まずは、『柳橋新誌』初編の語釈メモ帖である

        愁を掃う帚-成島柳北『柳橋新誌』二編の語釈と寸感Ⅲ

        • 銀瓶を引く―成島柳北『柳橋新誌』二編の語釈メモと寸感Ⅱ

        • 左袒せず―成島柳北『柳橋新誌』二編の語釈メモと寸感Ⅰ

        • 木を見て森を見ずの記ー成島柳北『柳橋新誌』初編の語釈メモ帖(抄)

          アイロニイを武器にしてー前田愛『成島柳北』の世界Ⅲ

          文久3年(1863)8月9日、「柳北は狂詩を賦して幕閣の因循を諷したかどで侍講の職を解かれ、閉門を申し渡された」――前田愛『成島柳北』によると、その頃の柳北の鬱屈した心情を表白した五言古詩「化石谷」が『柳北詩鈔』にある。(丸括弧内は原文にある振り仮名) 「君見よ麾下(きか)の児。往々にして気魂有り。一とたび御史(ぎょし)の班に列し、口啞(あ)にして手額(ひたい)に加ふ。匹(たぐ)ふれば彼の谷に入るが似(ごと)く、一たび化して曩昔(じょうせき*)に異なる。谷や胡為(なんす)れ

          アイロニイを武器にしてー前田愛『成島柳北』の世界Ⅲ

          花街の構造を穿つ―前田愛『成島柳北』の世界Ⅱ

          前田愛『成島柳北』は、ようやく「柳橋遊日」から「風俗誌の系譜」の章へと進む。 「いわば花街の構造を社会学的な精密さで立体的に再現して見せたところに、もうひとつの風俗誌の可能性を切りひらいた」――そこに成島柳北『柳橋新誌』初編の特色があると見る著者は、冒頭の一節を例に引く。これがまた難解な熟語のオンパレード、辞書と首っぴきをまぬがれない。(丸括弧内のルビのカタカナ表記は原著のまま、コロン記号「:」の後に熟語の意味を辞書から引用) 「橋の東西より両国橋の南北に連なつて、各戸(

          花街の構造を穿つ―前田愛『成島柳北』の世界Ⅱ

          神峰山の「ある町の高い煙突」に巡り合う

          長淵丘陵の赤ぼっこをはじめ関東の低山をめぐり、まだ足を運んでいないのは茨城と気づいたので、老羸を励まして日立の神峰山へ出かけた。日立駅のバス停へ行くと、平日の鞍掛山行きは「全便運休」の不意打ちをくらった。やむなくタクシーでかみね公園口まで行って、そこから歩くことにした。 かみね公園のはずれになるのだろうか、新田次郎文学碑と大煙突記念碑を発見、嬉しい不意打ちである。文学碑には《或る町の高い煙突 新田次郎 第二十八回 誕生と死と》の題字と、それに続く出だしの《三郎は祈るような気

          神峰山の「ある町の高い煙突」に巡り合う

          前田愛『成島柳北』の世界1

          馴染みのないというか、日頃まったく縁のない難解な熟語が、前田愛『成島柳北』(朝日選書)の引用文に頻出するのに難渋する。だが、それを調べているといつの間にか謎解きのような楽しさに嵌っていることも少なくない。おまけに誤植を見つけたり、ということから……。 柳北が柳橋芸者との歓楽を共にする一人、「杉恒簃」は「柳北の従兄にあたる杉本忠達のこと」であるとし、つづいて引用する栗本鋤雲「知人多逝」(『匏庵遺稿』)に、杉本忠温は「老羸(ろうえい)を以て死す、年五十九歳」とある。はてさて、忠

          前田愛『成島柳北』の世界1

          〈本と読者をつなぐ心〉の行脚録

          久方ぶりに能勢仁さんにお目にかかり、ご著書『本と読者をつなぐ心』(遊友出版)をご恵贈いただいた。卒寿をこえてなお出版人として著作をものする熱力に敬服するばかりである。 まず《世界の書店》を訪ねて、30年間に58か国、700書店を行脚した脚力に圧倒される。心にとまったいくつかを点描すると、まずイギリス・ロンドンの老舗、巨艦書店のフォイルズ書店は、鹿島守之助に「こんな本屋を日本にも作りたい」と思わせた書店であり、実現したのが八重洲ブックセンターである(今は街区の再開発計画にとも

          〈本と読者をつなぐ心〉の行脚録

          戦場ヶ原・小田代原をめぐる

          男体山を登りながら、眼下に見晴らした戦場ヶ原への憧憬が心をかすめてから、はや5年近くが過ぎていた。このところ低山でもかなりキツく感じだした老耄にとって、あるいは格好のウォーキングコースかも、と思って出かけた。 赤沼バス停から戦場ヶ原自然研究路へ入った。湯川に沿って歩いていると、川でマスを釣る人を何人か見かけた。羨ましい。木道を進むと、両脇の湿地にレンゲツツジが艶やかに咲き、ワタスゲの白い綿毛も見ごろなのか。しばらく進むと、川底が「赤い川」を渡る。たしか男体山の山頂付近は赤褐

          戦場ヶ原・小田代原をめぐる

          本阿弥光悦の芸術と出版事業

          本阿弥光悦は書画から漆芸、陶芸に至るまで声望の高い総合芸術家である。先の「本阿弥光悦の大宇宙」展(東京国立博物館)で購った玉蟲敏子・内田篤呉・赤沼多佳『もっと知りたい 本阿弥光悦 生涯と作品』(東京美術)を読んで、とくに「出版事業と宗達との共作」の章に刮目した。以下、その出版活動のあらましを抜き書きしておきたい。 〈日本の出版文化史上において、文禄二年(一五九三)の『古文孝経』と慶長十三年(一六〇八)の『伊勢物語』の刊行は記念碑的な出来事とされている。(中略)近世初期の出版

          本阿弥光悦の芸術と出版事業

          日連アルプス周遊記

          きのうの朝、土曜日なのに、高尾行きの快速はなぜか通勤ラッシュ並みの混雑。とうとう高尾まで立ち通しだった。 藤野駅から日連大橋を渡ってしばらく歩くと、日連アルプスハイキングコースの入口。ここから標高410mの金剛山山頂までは、九十九折の急登が続いてキツかった。というか、老耄のちょぼちょぼのエネルギーを早々と使い果たした気分である。 ここから十数分歩くと、「峯山頂へ1分」の標識が立っていて、1分ならと分岐を左折した。陣馬山、生藤山、雲取山、三頭山などが目に入り、山頂からの眺望

          日連アルプス周遊記

          灰屋紹益『にぎはひ草』抜き読み記

           夜も涼し     よもすすし  寝覚めの仮庵   ねさめのかりほ  手枕も      たまくらも  ま袖も秋に    まそてもあきに  へだてなき風   へたてなきかぜ 吉田兼好は、アタマの文字を上から読めば「米賜え」、オワリの一字を下から読めば「銭も欲し」と、米と銭の無心を折りこんで和歌を詠んだ。沓冠のレトリックである。その兼好に比べれば、「我とめる身にはあらざれども、よね(米)あり、ぜに(銭)あり、民のかまどのにぎはひある人まねして、心のいとまさらになく、心身

          灰屋紹益『にぎはひ草』抜き読み記

          大田南畝『仮名世説』の光悦像

          大田南畝は「本阿弥行状記」を見た数少ない人の一人である。「本阿弥光悦が行状記といえる書を、人に借りて読みしが、光悦の芸、一としてその妙手にいたらざるはなし。(中略)文あり武あり、人となり一時の傑というべし」と賞嘆する南畝『仮名世説』の一節が、先の正木篤三『本阿弥行状記と光悦』に引かれていた。 その『仮名世説』(『大田南畝集』有朋堂文庫)にザッと目を通してみると、もう一か所、光悦を俎上に載せているので、ここに抜き書きしておきたい。 「本阿弥光悦は、(了寂院と号す。)晩年洛北

          大田南畝『仮名世説』の光悦像

          正木篤三『本阿弥行状記と光悦』抜き書きの賜物

          最近、あまり馴染みのないジャンルの本を読んでいると、老いのせいもあるのだろうが、気に留めた個所がアレッという間に記憶から消えていく。やむなくその都度抜き書きしていると、不思議なことにというか、嬉しいことに、その本の叙述する世界にいつの間にかスッカリ嵌っていることに気づいた。「本阿弥行状記」中巻・下巻にざっと目を通したくて、正木篤三『本阿弥行状記と光悦』(中央公論美術出版)を手にして、心に響く個所を自分流に書き留めながら繙き、抜き書きの効能を体感したのである。 《中巻》の冒頭

          正木篤三『本阿弥行状記と光悦』抜き書きの賜物

          益子の雨巻山を山歩する

          いまは昔、シルクロードを旅して、敦煌へご一緒した荒田秀也画伯から、絵画展「道のア・ラ・カルト」のご案内を頂戴した。なんと会場は陶器の町・益子である。西域の情緒に惹かれて、会場のワグナー・ナンドール アートギャラリーを訪ねた。おまけに真岡鉄道は初めてなので、ちょっぴり「乗り鉄」気分も味わった。 あわせて雨巻山の山歩を思い立った。雨巻山は益子町の最高峰、と言っても標高533.3mの低山である。登山口まで1時間余り歩いて、大川戸ドライブインでお昼の腹ごしらえ。三登谷山尾根コースを

          益子の雨巻山を山歩する