中村真一郎『頼山陽とその時代』を読む
中村真一郎は「早春の巡礼」(『芥川龍之介の世界』岩波現代文庫)で長崎を訪れ、旧丸山遊廓内の料亭花月へ行った際、「山陽が滞在していたという云い伝えのある小部屋に招ぜられ」たと記すだけでなく、「ここに遊んだ頼山陽は、江芸閣の相方であった袖笑と寝ることをすすめられ、断って帰ったと自ら語っており、その真偽については当時、大いに議論されたところであった。芥川は山陽がここで孤閨を保ったという説には否定的であって、それは京都で待つ夫人への言いわけであったという考えに傾いている」とも書き及んでいる。
芥川龍之介とのからみで頼山陽とでくわし、これまで積ん読だった中村真一郎『頼山陽とその時代』(ちくま学芸文庫)を紐解いてみようと踏ん切りをつけた。というのも、森鷗外『伊沢蘭軒』の所々に頼山陽が顔を出すのだが、その風貌は何となく抱いていた頼山陽像とかけ離れていて、いわく言いがたい戸惑いを覚えた。そんなとき、たまたま書店で目にして『頼山陽とその時代』を購入したものの、上下2巻の長大さに怖気づいていたのである。
鴎外の『伊沢蘭軒』によれば、昌平黌遊学のために江戸へ赴いた山陽は、従母婿である二洲尾藤良佐の官舎に解装し、尾藤博士の塾に学んだ。しかし、「江戸の二洲が塾にあっても‥‥風波を起して塾を去ったものと見える」という。というのも、「山陽が尾藤の家の女中に戯れて譴責せられたのが、出奔の原因であった」という森田思軒の説を引き、鴎外は「山陽は『例の肝へき』を出して自ら奔った」と見るのである。そして、山陽の転がり込んだ先が蘭軒のもとだったという顛末である。
さらには、当時においては信じがたい脱藩事件を起している。「山陽が広嶋杉木小路の家を奔ったのは」、山陽の祖父の弟が歿したので、母・静子が山陽をくやみに遣ったところ、どういうわけだか「山陽は従祖祖父の家へ往かずに途中から逃げ」て京都に奔った。なぜ脱奔したのか、どうにも理解不能である。ただちに「山陽は京都の福井新九郎が家から引き戻されて、十一月三日に広島の家に著き、屏禁せられた。時に年二十一であった」というのだ。座敷牢のなかで過ごした「山陽が謹慎を免(ゆる)され、門外に出ることとなった」のは三年後である。
それから数年後、「頼菅二家において、山陽に神辺の塾を襲(つ)がせようとする計画」が進められた。茶山は、「頼久太郎と申を、寺の後住と申やうなるもの、養子にてもなしに引うけ候」と、山陽を廉塾の講師に据えたことを蘭軒への手紙に書き記し、つづけて「文章は無双也。‥‥年すでに三十一、すこし流行におくれたをのこ、廿前後の人の様に候。はやく年よれかしと奉存候事に候」とある。「『文章は無双也』の一句は茶山が傾倒の情を言い尽している。傾倒の情いよいよ深くして、その疵病(しびょう)に慊(あきたら)ぬ感もいよいよ切ならざるを得ない」と、鴎外は茶山の心理状態を読み解く。
案の定と言うべきか、ここでも山陽は一年余りしか我慢できず、「三十二歳で神辺の塾を逃げ、上方へ奔った」のである。茶山の廉塾を継ぐはずの山陽はなぜ高飛びしたのか。富士川英郎『菅茶山と頼山陽』(東洋文庫)によると、じつは「菅氏を名のる」ことを福山藩から求められ、さらに茶山からは、福山藩に仕え、妻帯することなどを勧められ、ここに至って山陽は堪えきれなかった。とどのつまりは「自分を永く神辺にひきとめることになるあらゆる絆を断ちきることに夢中であった」というのだ。縛られたくなかったのは分かるとしても、いきなり出奔というのは解しがたい。
さて、中村真一郎『頼山陽とその時代』はこうした行状をいかに読み解いているか、以下、心のおもむくままに抄録したい。
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