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詩と手紙の言葉―平林敏彦『言葉たちに 戦後詩私史』抄
北アルプスを一望する安曇野松川村に移住して三年になる頃に書かれた、平林敏彦『言葉たちに 戦後詩私史』収録の「Memorandum」(初出:『平林敏彦詩集 現代詩文庫142』思潮社、1996年)に、「あれが白馬の駆ける雲形」という表現を見つけて、安曇野の「自然の息づかいを至福と感じる」のも宜なるかなと思った。
「食うために週に一度は東京の出版社へ出稼ぎに行く。‥‥大糸線の細野という無人駅から『扉は手で開けてください』というローカル線で松本へ出て、中央線の特急に乗り換え、神保町の仕事場まで自宅から片道四時間」という叙述を読んで、つい先日、八方池に映る白馬三山の絶景を目にしたくて、細野のさらに先の白馬まで往復した大糸線で耳にした車内アナウンスが、車窓の風景とともに、あざやかによみがえるのであった。
ほどなく東京に転地した著者は、第二詩集『種子と破片』をユリイカから上梓しているが、そのユリイカの刊行した『戦後詩人全集』第4巻には、野間宏、安東次男、飯島耕一、河邨文一郎および平林敏彦とともに、はからずも磯永秀雄が収録されているえにしに驚きを禁じえなかった。というのも、磯永さんはある時期、山口県光市から上京されるごとにお目にかかってご交誼いただいた、忘れ得ぬ詩人だからである。お二人が出逢うことはなかったのだろうか。
哲学者・鶴見俊輔さんとの「数少ない接点」と「忘れがたい記憶」には、心打たれるものがあった。著者の主宰する詩の雑誌『今日』(1954年10月発行、第2冊)に、鶴見さんが「らくだの葬式」と題する詩を発表しているのである。目次を見ると、黒田三郎の評論「個人の経験とは何か」、詩欄には山本太郎「聖灰祭」、大岡信「静けさの中心」、清岡卓行「不吉な恋人たち」、安東次男「樹」など錚々たる詩人の作品が並んでいる。
その鶴見俊輔さんと半世紀の歳月を経て再会したのは、「極私的評論」と著者の言う『戦中戦後 詩的時代の証言 1935-1955』(2009年、思潮社)が、第12回桑原武夫学芸賞を受賞した、その授賞式会場の控え室であった。選考委員は梅原猛、杉本秀太郎、鶴見俊輔、山田慶児の4氏であるが、鶴見さんは健康を損ね、選考会を欠席された。そして、授賞式にも出られないはずであったが、「会えないとあきらめていた鶴見さんが、病いを押して会場の控室を訪れ、約三十分間も過ぎ去った時代の話をしてくれた」というのである。一つの邂逅をゆるがせにしない生き方に胸をあつくした。
詩的世界にうとく、詩心に乏しいわたしは、詩についてうんぬんする才を持ち合わせないが、著者の第三詩集『水辺の光 一九八七年冬』に寄せた長田弘の序「Letters」の一節が目にとまった。
「詩は、親展として誌されるべき言葉である。‥‥かつて手紙としての詩をこころを込めて書き、ついに宛先をみつけられず、みずから詩を思い切った詩人が、それから三十年(!)のあいだまもった孤独な沈黙のあとに、はじめてじぶんの手紙の本当の宛先をみいだして、ふたたび『一本の鉛筆を削って』、こころを削ってしたためた新しい手紙の束だ。」
その20年前、長田弘はその評論集『探究としての詩』(晶文社、1967年)の冒頭に、「秋の理由(序詩)」を組んで、「平林敏彦よ、/あなたはいま何を凝視めているか/それとも黙ってうつむいているのか/なぜ詩を書かないのか」と呼びかけた詩人である。
この序にふれて、江戸後期を代表する詩人・菅茶山の手紙について、頼山陽がうたった「朝来(ちょうらい)、君が書を獲(え)たり。題を覩(み)て、已に心怡(よろこ)ぶ。‥‥書中、詼咲(かいしょう)を雑(まじ)え、恍として見る、厖眉(ぼうび)を掀(あ)ぐるを」という漢詩を想い起こした。
しかも、「茶山の書簡が明快であるとともに曲折に富み、しばしばその間に諧謔をまじえていて、それを読むときはさながら老茶山の謦咳に接するような思いがした」(富士川英夫『菅茶山と頼山陽』東洋文庫)のは、著者の解説によれば、ひとり山陽のみではなかった。これは詩と手紙について、たんなる連想を述べているにすぎないが、あるいは何か符合するものはないだろうか。