唯心−ヴィトゲンシュタインの独我論と仏教
『華厳経』(十地品)の中に、「三界虚妄、但是一心作」という句が出てくる。これはどういう意味かというと、
存在世界は、隅から隅まで虚像であって、すべてはただ一つの心の作り出したもの
ということである。
また、華厳宗でよく読誦される、『如心偈』の中にこのような句がある。
心造諸如来
読んで字の如く、心が諸々の如来をつくる、という意味である。
これらはいずれも、唯識派の根本テーゼである「万法唯識」の展開に過ぎないことはお分かりいただけるだろう。
哲学者、ルードヴィヒ・ヴィトゲンシュタインが『論理哲学論考』において、各自を視点として世界が構成される以上、その世界は必ず私自身のものであって、その内部に他者は存在しえない、とした独我論を少し見てみる。
言い換えれば、私は世界のなかに存在するのではないということである。
そこで、これを明確にするために、ヴィトゲンシュタインは「私が見出した世界」という本を私が書く、という例を出している。
例えば、鏡を見て自分の姿についていくらでも細かく書くことはできる。だが、それ(鏡に写った自分の姿)を見ている自分それ自体は決して書くことができない。
我々が見ているこの世界を誰一人として客観の世界としてみることなど、できないのだ。すべては主観である。であるなら、それは、心がつくりだしているものに過ぎないのだ。というのが仏教の世界観なのである。
もう一つ、懐疑論を見てみる。
あなたは、「自分が存在している」と言えるだろうか?言い方を変えると、「自分が存在していると知っている」と言えるだろうか?
ここで重要なのは、「知っている」とはどのような状態なのかである。
この状態について、例文を出しながら見ていく。
太郎くんは丘の上にある桜が咲いていると思っていた。
だが、他の人が見に行ったところ、咲いていなかった。
これはどう考えても、「知っている」とは言えないだろう。ということは、少なくとも真実である必要がありそうだ。
次に、こちらの例文をみてみよう。
太郎くんは丘の上にある桜が咲いているかどうかわからない状態である。
他の人が見に行ったところ、咲いていた。
これも、知っているとは言えないだろう。そもそも、わからないのだから。となると、一つ前の例文によって得られたことと合わせるなら、真実である事柄を、真であると信じている必要がありそうだ。
では、こちらの例文はどうだろうか。
太郎くんは蛇が嫌いである。
確認はしていないけど、自分の机の引き出しの中に蛇がいる気がして、開けれなかった。
別の人が、その後確認したところ、実際に蛇がいた。
これは蛇がいることを「知っている」と言えるだろうか?確認していないのであるから、別の人が確認するまでは単なる「思い込み」の状態ではないだろうか?
ということは、真実を真であると信じるのに加えて、それが正当化されている必要がありそうだ。
これを「正当化された真である信念」という。
では、はじめの問いに戻ろう。
「自分が存在していると知っている」と言えるだろうか?
「自分は存在している」を真とする。
次に、「自分は存在している」と思っている。
これで、真である信念ということになる。
では最後に、これが正当化できうるだろうか?
「自分が存在している」ことをどう証明するのか?もしかしたら、あなたが体験しているこの世界は、実は水槽に浮かんだ脳が見ている夢かもしれない。(Brain in a Vat)
これで、お分かりいただけただろうか。目の前に見えているすべての事物が、それぞれ、そのまま、そこに、そのもの自体として実在しているとする「素朴実在論」は、なかなか正当化できえないことが。であるからこそ、仏教は「素朴実在論」ではないのである。
(参考文献)
1. ウィトゲンシュタイン『論理哲学論考』野矢茂樹訳、岩波書店、2003年。