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身を捨ててこそ、浮かぶ瀬もあれ

「無財の七施」の中に、「捨身施」というものがある。

他人のために働くことがそのまま自分の徳を積むというものである。仏教では、こと体得、体現ということを非常に重要視している。

 「長恨歌」で有名な漢詩人、白楽天が杭州の刺吏となって来た時、鳥窠の道林禅師に「いったい仏法とはどんな教えか?」とたずねた。

その時、道林禅師は「諸悪莫作、衆善奉行」と答えた。すなわち、「悪いことは作さず、善いことを行うのだ」と。

白楽天は「なんだ、それが仏法か。そんなことなら3歳の童児も知ってるよ」と言った。

しかし、道林禅師はすぐこれに反駁した。「3歳の童児も知っているかもしれないが、80の老翁もこれを実行することが難しいではないか。」と。

こう言われて、白楽天は心に思いあたるところがあったのか、自分の負けを認めて、その場を引き下がった。

「諸悪莫作、衆善奉行」の句は、「七仏通戒の偈」と言われるもので、お釈迦さんが説かれただけでなく、それ以前の過去七仏が等しく説かれた教えである。これこそが、まさに仏教の本旨なのである。つまり、頭で理解していても、実践していなければならないのである。これが、まさに「体解」である。

 一例として「賓頭盧さん」の記事で出てきた、目連尊者のエピソードを紹介したい。

 目連尊者が五体投地の礼拝をする間に、まったくわれを忘れて一生懸命に投地礼拝をし、大地に強く額を押し当てたため、額から血が流れ出た。それでも、目連さんはまだ気づかずに続けられたのだ。そばにいた人々は、もう礼拝を一時やめてはどうですか、と止めるが、よそ吹く風のようにいっこうに聞き入れなかった。

目連さんは、ついに倒れてしまわれた。

流れた血の海からは赤い蓮華が咲き出て、血なまぐさい匂いどころか、それはとても美しい良い匂いが馥郁として蓮華の花そのまま匂いを放った。その場に居合わせた人々は誰一人として、その匂いをかいで悟りを得ないものはなかったとお経に説かれている。

 このように自分を捨てて物事にぶち当たってこそ事は成就するのであろう。

 「身を捨ててこそ、浮かぶ瀬もあれ」という諺の通り、何事に対しても常に自我を捨てて向き合っていかなければならないのであろう。

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