やりたいこと

自分の思考が介入してくる前に動く、情動、それが僕には少し足りていない気がする。
自分があと1年で死ぬとした時に、好きなことしていいと言われたら、何かやることあるか。
医学教育とか誰かを救いたいとか、そういうことはこの時点では出てこない。
しかしあと50年後に死ぬとすれば、それらの望みは入ってくる。
即ち、自分が根源的に求めていることというのは、元来とても即時的なものであるということが逆説的に言える。
あと何年後に死ぬか、その何年のスパンが長ければ長いほど、他人のことについてのアクティビティになり、短ければ短いほど、自己に向いたアクティビティになる気がする。

60歳で一区切り着くと想定すると、最長30年後に死ぬならば、という仮定になる。
30年後に死ぬならば、思いつかない
20年後に死ぬならば、どうやって20年間生き延びるかを考えるかもしれない
10年後に死ぬならば、何か後世に残るシステムを作りたいかも
5年後に死ぬならば、恋人と一緒に過ごしたいかもしれない
3年後に死ぬならば、友人と昔のゲームでもやりたいなあ
1年後に死ぬならば、海外旅行に出かけたいだろう
1ヵ月後に死ぬならば、好きな本でも読み返すだろうか
1週間後に死ぬならば、自分の好きな人達に逢いたいと思うだろう
明日死ぬならば、自分の人生を振り返りたいだろう

この先長くないのだから、自分の好きなことをしなさい、こういうセリフを聞くことがあるけれど、このセリフに疑問を抱く人はどれくらいいるのだろう。
この先長くなければ、自己中心的になってもよいのだろうか。逆に言えば、他人の為に何かできることに、自分のことはまた後でもできるから、という暗黙の条件が隠れているのではないだろうか。そう考えると、何たいそれたことを言っていても結局は自分本位なのだなあとしみじみと感じる。

やりたいこと、と一言で言ってもそれはいつやりたいことなのだろうか。
どのタイミングを想定したやりたいことなのだろうか。ここがあんまりしっかり自覚できていないからたまに迷子になるのかもしれない。

思考はまさにその瞬間の欲望として分かりやすい。
上に書いたやりたいことを眺めると、3-10年後を境に欲望が未来の欲望か現在の欲望か分岐点になっている。

自分の欲望について、たまによく分からなくなる時がある。
今回は時系列の切り口で考えてみた。
欲望の実現可能性と、実現後の満足感の持続性、永続性、この辺りを天秤にかけているのかもしれない。

実現可能性  充足感持続性 
 高       高     → こんな理想的なもないか
 高       低     → ex)誰かに逢う → 死ぬ間際の欲望 
 低       高     → ex)教育する → 先が長い時の欲望 
 低       低     → ex)友人と昔のゲーム、海外に住む →中間ぐらいの将来 →これが所謂夢ってやつか?

実現しても長続きしない欲望はわざわざその時点で満たす必要性がないと判断しているのだろう。
また後で実現できると踏んでいるのだと思う。

最終的には自分という存在に満足感を得るのが目的なのかもしれない。

こう考えると、おのずと今やることが見えてくるのかもしれない。
とりあえず実現できそうで、即時的なものは今やる必要性がない。今やっても効果は続かないのだから。
だからとりあえず、今は夢ってやつのために今の時間を使うのが何となく正しいのだろう。その夢が実現する可能性を高める。
それと同時に自分という存在自体に、何か充足感を得られるようにも動かないといけない。
自分の好きな人と、海外に行って色んな世界を味わう、これが僕の夢だろう。夢、それは人生の+α
漠然とした目標だけれど、きっとこれなんだな。

言語化すると、
”理性ではなく感覚で素敵だと感じるものを、誰かと共有する”   という行為になるのだろう。

自分が感覚的に好きなもののひとつに、アーセナル以外に、海外の空気もあったね。あとは好きな音楽か。
一人で楽しむことも可能であるけれど、それはいい思い出にはなる。好きな人と共有できれば、それは最高の想い出になる。

何かここまであれこれ書いたけれど、これだな。自分の欲望。
「世界を見る×好きな人と共有する」

”世界を見る”の方は自分の努力の範囲内であるからこそ、ここを頑張る必要が生まれてくるのだ。
正直、教育とか誰かの為とか、どうでもいいかもしれない。どちらかを天秤にかけた時に、教育を選ばないもん。
仕事として、社会に生きる人として、そういう条件がくっついた欲望であるなあ。

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