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執筆について

文章を書くこと。それは私にとって途轍もないストレスを伴うものである。

よく「書いてストレスを発散してたもれ」「思いをうんぬん書くことでかんぬん」などとメンタルヘルス的な面で文章を書くことを推奨されるが、私の場合全くもって逆効果である。


とにかく、怖い。ミスが怖い。
言い回し、誤用、「てにをは」の間違いなどがとても怖い。それを指摘されるのが怖い。
表記ゆれや、漢字をひらくか否かも気になって仕方がない。
仕方がない、なのか、仕方が無い、なのか、しかたがない、なのか、しょうがない、なのかいちいち逡巡してしまう。
句読点や改行の位置なども同様である。
こんな、感じで、句読点を、打つ人が、たまに、いるが、死んでしまえば、いいと、思う。

SNSなどでも絶対に誤字を晒したくない。誤字は恥だ。
完璧主義者であるから、では決してない。完全に国語教育の弊害である。こうして長文を書いていると、必ず先生の赤字バッテンがちらつくのである。内容よりも作法の方に比重が置かれてしまい、結果新入社員のビジネスメールみたいなカチコチの文章ができあがる。
過度な受験教育の結果、私のような文章・オブ・レールの上人間が出来上がるのではないか。今のもおそらくバッテンである。

言葉の誤用なんて恐ろしいものもない。
春先に意気揚々としたり顔で「いやぁ今日はポカポカして実に小春日和ですねえンフフ」なんて言ったのに、「小春日和は秋冬に使うんですよ」とか冷静に指摘された時にはもう脱糞ものである。

だから私は書く前にググる。ググりまくる。先程も「意気揚々」と「したり顔」を念のため調べ、よし大丈夫と確認してから入力する始末である。ついでに「脱糞もの」も調べてみたが、当然ながらそんな言葉は存在せず、どうやら「噴飯もの」との誤用だと思われるが、なぜ私の脳内で飯を口から吹き出すはずが糞を尻から吹き出すイメージにすり替わったのか全くもって謎である。まあバタイユ的にはOKなのでしょう。


こうして何とか出来上がった文章は、もはや私の芯から出た裸のコトバではない。検閲され改編されコラージュされ尽くした、ただの記号である。シニフィエを伴わないシニフィアンである。フランケンシュタイン的文字列である。ちなみにフランケンシュタインはあの人造人間ではなくそれを生み出した科学者の名前である。指摘される前に言っておこう。
それを発露したところで、一体なんのストレス発散、自己表現になるというのか。銭湯で股間を隠すために甲冑を着て入るようなものである。


ではなぜいま書くのか。
答えは明確である。私の記憶力が著しく衰えていっているからである。

元々私は記憶力が良い方ではない。
固有名詞は基本的に覚えられない。何回共演してもバンド名が覚えられない。現場で何回失礼ぶっこいたことか。すみません。学生時代の友人はほぼ忘却の彼方である。
「興味がないから覚えていない」ということではないらしい。何だったら先日、妹の名前を忘れてしまい大変困った。
その割にスリジャヤワルダナプラコッテとか、寿限無寿限無(以下略)とか、パブロ・ディエゴ・ホセ・(中略)・イ・ピカソとか、どうでもいいものはいつまでたっても覚えているのもまた問題であるが。

これが年齢を重ねるにつれ、さらに悪化する一方。
このままでは今何を考えていたかも忘れてしまう。そういった頭の中の消しゴム的危機感を抱き、ここに至る訳である。

noteとブログの違いが未だによくわかっていないのだが、恥を忍び、半べそで何か書くことにする。便利な世の中である。


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