友近賞受賞作「県民には買うものがある」(1/5)
林田くんは今日もチャックのついた薄手のパーカを着ている。全体は紺色の無地で、フードの裏に青を基調としたチェック柄があしらわれたものだ。イオンで買ってん、と言うその服はまだ寒い今の季節における彼のデートコーデを支え続けている。
丸い眼鏡、古着のニット、ニューバランスのスニーカー。林田くんはそういった類のものが一切似合わない。彼は、不細工ではない。むしろ顔立ちはそれなりに整っているほうだろう。ちょっと垂れ目ぎみで、唾の照る八重歯があるけれど、黒い髪は会社員らしく清潔に整えられていて感じがいいし、背も高い、歳もまだ25歳で若い。それでも彼は、文化的な流行りものを身につけられる世界線にいなかった。たったそれだけだけど、これは彼自身も気付いていない世の中との大きな断絶だと思う。
「それ、気に入ってんな」
シートベルトを締めながらパーカについて言うと、隣で運転している林田くんはいつもと変わらず嫌につんけんして、「まあな」とだけ返す。少しもこちらを見ないでアクセルを踏み、車は静かに駅前ロータリーから発進する。
林田くんは生まれてからの25年間ずっと、この滋賀で育ってきた。彼の家の近くにはICカードも使えないローカル線のボロい駅しかなく、高校は家から自転車で通える距離にある、そこそこ頭のいい進学校に通っていたそうだ。高校を卒業し、就職したのは県内にある企業の営業職。就職と同時に免許も手に入れた彼は、今や自分の車まで持っている。種類とかよく知らないけど、とにかく真っ白ででかい車だ。
その車で今日もドライブに来ていた。おそらく湖岸道路から琵琶湖大橋方面に走らせ、そのまま何てことのない顔をしてラブホテル街に流れこむところまで、今日もあの日と同じだろう。それは滋賀じゅうのあらゆるカップルが繰り返し通ってきたお決まりのルートで、私たちも週末になるとコピー&ペーストするように何度もそこをなぞっていた。
林田くんとは2ヶ月前、SNSの「滋賀県コミュニティ」で知り合った。
「暇やったらメールしません?(笑った絵文字)」というメッセージがきたのは深夜の1時半で、3時頃にはすでに電話をしていた。何度かのつまらなく長い通話をしたのち、すぐ会うことになったのだった。会ったその日に、した。
駅前まで迎えに来た林田くんは今日と同じパーカを着ていて、そのくせ黒い革のシートでは映画に出てくるマフィアさながらにどっしり構える姿が印象的だった。それにこちらへ向けられる、自分のものを見るような目も。
でも彼の態度は間違ってはいない。滋賀ではミニシアター系の映画を好むとか、外国のインディーロックに詳しいとかは、魅力のポイントとして成り立たない。そういう文化度の高い男より車を持っているほうが強いし、その強さにときどき私も負けてしまうことがあるから。そもそもダサいパーカを着る林田くんとこうやって会ってしまうのも、毎週末私から連絡しているせいだ。
その日の私とヒロミちゃんはやたらに寂しくて、放課後きたハンバーガーチェーン店でフェラでも何でもいいからしたいと嘆いていた。
「あたしはな、どきどきしたいねん、とにかく」
エビフィレオを頬張り、タルタルソースを口の端につけてヒロミちゃんは言った。私と同じ「中くらい」の女子グループだけどギャルの子とも仲良くできるヒロミちゃんは、私の前だといつも手放しでセンチメンタルになる。私という穴に、日常会話では聞かないようないやに壮大な言葉を、どさどさ落としていく。
「夜中に待ち合わせて、名神高速乗ってさ、夜風に吹かれたいねん。そんで、朝焼け見てしあわせーってなりたい、刹那的な、かんじ!」
しきりにパチパチ瞬くヒロミちゃんのつぶらな目に気圧されながら、私は相槌をうち続ける。ヒロミちゃんは大仰だし、安っぽいことをすぐ言うけど、彼女の気持ちは私にもよく分かった。
高校3年の2月に入ったところで、受験を終えた私たちのもとには若さを持て余してしまったような、漠然とした後悔が押し寄せていた。私とヒロミちゃんにはそれまでろくな男性経験がなく(ヒロミちゃんは中学のときフェラまではいったらしいが)、このまま高校生ではなくなってしまうことが忽ちむなしく思えた。
不良じゃない、学校の男子に興味を持たれるほど可愛くもない、だからって援交とかはちょっとできない。自分たちのそういう微妙な立場なんてとっくに全部分かっていて、そんな微妙な私たちでもあと2ヶ月も待てば大学に入るし、そしたらそれなりに女として扱ってもらえるようになる、って想像もできた。ただそれまでの2ヶ月間は、頭の上から足の先まで吸い出されて何か大事なものを失ってしまいそうな、訳のわからない恐ろしさがあったのだ。
自分で言うのもなんだけど、私はパッケージが可愛いコスメも、女性作家の書いた大人っぽい小説も、小洒落たセンスいい音楽も、女子高生のうちにやっておこう見ておこうっていうものは、とりあえず口いっぱい掻っ込んできたつもりだ。なのに男を知らないというその一点で、自分だけ画素の粗い世界にいるようなまごつきはいつまでも消えてくれなかった。
たとえ大学に入ってすぐセックスできたって意味はなく、ヒロミちゃんもそれは同じように思っていたらしい。
「JKでヤってないってさぁ、それだけで絶対なんか取りこぼしてるもん」
そんなんあかんもん、とヒロミちゃんは顔をしかめて言った。取りこぼしてる、という言葉を、今しがた吸ったシェイクの甘みとともに私も唱えてみる。
ヤる、なんて乱暴に言うけど、彼女も私もセックス自体が重要ではないはずだってことは何となく分かっていた。ただ、男と二人でこの世に存在するということ。それが今は呼吸の次くらいに大事な気がしてしまう。だって私たちは、女子高生の感性という一見豊かに育ちそうな土壌を耕す間も無く、もうすぐ手離さなければならないのだ。
「あたしらもう、18やん」
「うん」
「でもまだ、女子高生やろ」
「うん」
そうして私たちの冒険心はささやかにはじけた。
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