加藤豪と矢田滋の、美術展を見ての往復書簡

エドゥアール・マネについて


2019/12/25~27

K「矢田さん、こんにちは。ちょっと伺いたいことがあるのですが。東京都美術館の「コートールド美術館展 魅惑の印象派」(2019年9月10日~12月15日)ってご覧になりました? 来年の1月3日から愛知県美術館にこれが巡回するので、見に行こうと思うのですが、目当てはセザンヌが2点ほど来るのでそれと、好きな作品ではないですが有名なエドゥアール・マネの『フォリー=ベルジェールのバー』、この現物を見るのは私は初めてで、矢田さんは見たのかと思って。『フォリー=ベルジェールのバー』はフーコーが『マネの絵画』(講演)の最後で論じている作品です。バタイユも論じているものですが。矢田さんはフーコー『言葉と物』を読んでいるので、どういう見方をするのかと思って、ちょっと聞いてみたいのです。私はフーコー『マネの絵画』は読んで、感覚ですが全体に「息苦しさを」を感じたのです。ほとんどフーコーの嫌がらせか?と私は勘違いしたのですが、執拗なマネの各作品に対するフーコーの分析が異様なのですよね。

コートールド美術館展 魅惑の印象派|東京都美術館 https://www.tobikan.jp/exhibition/2019_courtauld.html

「この作品です。私は、基本駄目な作品だと思うのですよね。なぜ、こんな作品にみんな一生懸命語るの?ということが、私はよく分からないのです。」

画像1

Y「どうも、ご無沙汰しています。その展覧会はセザンヌがよさそうだったので見に行こうと思ってたのですが見れてません。マネは、その作品は無理が色々ある感じはしますね。フーコーのマネは読んでないですが、バタイユのマネ論は読みました。」

「バタイユはマネについて不定形の染みとか感覚の震えがいいとか書いてましたね。三菱一号館美術館で昔にマネはまとめて見ました[1]。よく言われることでは、マネは画面の真ん中あたりの物の配置とかつながり感に苦労しているというのがあって自分もそう思いました[2]。マネは、おそらく事物とかカラダのパーツとか複数とらえつつ空間もみるのに難があって、違う方法でやるところでコラージュぽくしたり、カラー写真ぽくしたりが出てくるのではと思います。マネの「前衛性」を評価する人は、深読みしてそこを観ているきがします。絵画の骨組みを見ないで観ているということでもあると思いますが。また明日なにか思い付いたら書きます。」

[追記1] 『マネとモダン・パリ展』(2010年)のこと。

[追記2] このことについて、美術批評家の書いたものとして詳細なものは、『絵画論の現在 マネからモンドリアンまで』(1993年)の藤枝晃雄の指摘。藤枝はグリーンバーグが「マネは大きさはどうであれ、一人もしくはそれ以上の人物を前景においた場合、前景から中景・後景への推移の扱いにいつも難儀した」と言ったことなどにしたがって、マネの否定的な面と肯定的な面をあまり切り離せないものとして論じている。他に印象深くて覚えているのは、アーティストの彦坂尚嘉さんの竹林閣のモダンアート史の講義(おそらく2014年頃)で聞いた内容である。マネの空間把握力のなさについてかなり厳しい指摘がなされていた。彦坂さんはこのマネの欠点に関して、アメリカの研究者でも同じような見解であるというエピソードも紹介していた。そもそものモダンペインティングの評価基準が出発点からしてストレートなものでなく裏表があるというのが了解できた。

K「返信ありがとうございます。なるほど大変参考になりました。バタイユが言った「不定形の染みとか感覚の震え」というのは、筆触が荒っぽいタイプのもののことでしょうか。今WikiArtで年代順に見ていって、『オランピア』とか『草上の昼食』より後の、40歳代の中期以降に多いように思いました。併せて、人物を描いているもので共通して私が気になったのが、マネが人間を一体どのように見ていたのかということです。『フォリー=ベルジェールのバー』の人物も虚ろなのですが、虚ろな現代人を描いたというよりも、マネ自身が人間を見る目が極度に虚ろだったのじゃないか?という大きな疑問です。

https://www.wikiart.org/en/edouard-manet/lola-de-valence-1862?fbclid=IwAR21Hruh0Quc2fz2kN32dAG_3f-9UbHQ-3LDcZ7-T-ukijUWiEnydUtLLl4

「「よく言われることでは、マネは画面の真ん中あたりの物の配置とかつながり感に苦労している」に関しては、フーコー『マネの絵画』でも引用されていた、『テュイルリー公園の音楽会』(1862年)に顕著だと私は思いました。確かにそうだなと。同時期の『草上の昼食』もそうですが、画面中央部に視線の力点を置きすぎるのではないでしょうか。苦しげな感じがするんですね。とにかく、『テュイルリー公園の音楽会』はすべてがうまく行っていなくて、これを初めて、フーコーを読みながら画像検索して見たとき、「正気か?」と思いました。と同時に、深読みされがちだという「コラージュぽく」とか「カラー写真ぽく」とかいう要素が詰め込まれているようにも思います。」

画像2

『テュイルリー公園の音楽会』1862年

「「事物とかカラダのパーツとか複数とらえつつ空間もみるのに難がある」というのは、本当にそうですね。最晩年である、『フォリー=ベルジェールのバー』は、とことんそういう作品になっている。」

「フーコー『マネの絵画」では、『オランピア』も引用されていて、事物に当たる光源の方向の問題として、「全光」という問題が書かれていたと思います。描かれる事物に当たる光源の方向(の変遷)に関しての、美術史上の議論というのは、事前にあったものなのでしょうか。これについても伺ってみたいです。」

Y「全光の問題はバルビゾン派あたりから重要になるというイメージがあります。以下は、彦坂さんの竹林閣の時の講義で習ったはなしですが、ルネサンス時代は透視遠近法でも室内や建築パースペクティブでおさまっていて、バルビゾン派のコローあたりで、完全な野外風景に画家の視点自体が含まれるようになるときに、パースペクティブをどうとらえ直すかでおおきな変化がおきたそうです。ここらへんがピサロとかセザンヌのいろいろな捉え方への曲がり角なのではないでしょうか。前にバルビゾン派と後期印象派を同時にやった展覧会[3]で、テオドール・ルソーとゴッホの風景画が近くにならんであって、空と地平線をつなげて光があふれている描き方等にそんなにおおきな違いはないとおもったことがあります。」

「人物画と特定の光源位置の組み合わせの問題は西洋絵画ではとにかく重要視されている印象はあります。16~17世紀のオランダ周辺の絵画で、夜の暗くなった室内で夕食を取る場面の絵ばかりを比べた研究書とか持っています[4]。ドイツ語なので詳しくは読めないですが。」

[追記3] 『ゴッホ展』2005年 国立近代美術館のこと。

[追記4] 『DAS NACHTSTUCK MIT KUNSTLICHIT』(1999年)のこと。

https://www.amazon.de/Das-Nachtst%C3%BCck-Kunstlicht-Mirjam-Neumeister/dp/3935590792

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