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記憶というもの
目を閉じると昔、体調を崩した時に、通ったことのあゆクリニックを思い出した。当時はクリニックというより町医者と呼んだ方がしっくりくる感じであったと思う。
院内に入ると、古びたフローリングがあり、左側には受付があり、その中には受付のおばさんが3人ほど居たように記憶している。
私は、その頃、便秘でお腹が痛くなり、病院を訪れていた。そこで子供ながらに浣腸をした事を思い出す。浣腸は、浣腸した後すぐにトイレに行ってはダメで、それなりに我慢してからでないと、ちゃんとした、うん⭕️がでない、と子供ながらに医者から教えられた。ただ、子供の私にとって、うん⭕️を我慢するのはしんどかったため、そんなに我慢できずにトイレに行って、浣腸の溶剤がベチャベチャと流れ出たような気がする。
と、そんな過去を振り返り、また他の記憶を探ってみると、その近くにあった公園を思い出した。その公園では、よく靴飛ばしをしたなぁ、と懐かしく思う。
人は、記憶を呼び覚ます事で、過去の体験を振り返る事ができる。その頃の楽しかった思い出や、切なかった思い出など、楽しんだり、悲しんだりすることができる。
記憶が鮮明なうちは、これを思い出す事も容易であろうが、次第にこれらの記憶も呼び起こせなくなるのだろうと思わなくも無い。というのも、今時点において、既にだいぶ忘れてしまっている事があることも分かっているためだ。昔だったら、もっと鮮明に思い出せた事が、これから、より一層思い出せなくなる。それは確実に細胞レベルで死に近づいていっているのだろう。
そんな事を思うと、今の記憶にあるものを用いて、小説でも書いて、自分の経験であったり、考えていたことを後世に残す事が自分が生きた証を残すことになるのでは無いかと、そう思えてならない。
世の中の偉大な人は、物事を成し遂げた時に、自分で意識せずともメディアに取り上げられ、その人の軌跡をレポートして貰えたりするが、一般の人にそのようなフォーカスが当たることはなく、誰にも気づかれる事なく、死んでいくのみである。そう考えると、生きた意味とは、何だったのだろうかと、考えずにはいられない。
人の生きた意味は、その当人や周りの人に何かを残せたかどうかであり、当人はいずれ死んでしまう事を考えると、周りの人に何を残せたのかが重要になるだろう事は言うまでも無い。