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下手な文 4<雪待月>

呼び名は霜月だけじゃない。
「ゆきまつつき」という響きのなんと美しいことか。

「待つ」という言葉から、夢と希望をまず連想してしまうのは、私がお気楽人間である揺るがぬ証拠といえようか。未来の何かを「待つ」という行為は、私の中では「期待」「楽しみ」に直結する。だから「雪を待つ月」という言葉に美しい雪景色を描き、初雪を待ち焦がれる・・・という乙女チックというかファンタジックというか、何やらフワフワした気持ちになってしまうのだ。

別の方向に思考を動かしてみると、愛犬の食事前の「待て」というのは涎に直結する。これは「期待」と「我慢」が入り混じった「待つ」になる。

「待たされる」となると、意味合いは最初から180度向きを変えて不快なものに成り下がる。「過去に既に発生していたはずの何か」が未到来であるとき、「待たされた」と受動的な表現があらわれる。

未来を待つのはワクワクで、過去を待つのは不愉快。
同じ「待つ」でも意味は両極。

「年月は何の意味をも持ちません。そして十年も無に等しいのです」
「春の嵐の中に悠々と立って、そのあとに夏がくるかどうかなどという危惧をいだくことのない樹木のように成熟すること。結局夏はくるのです。だが夏は、永遠が何の憂えもなく、しずかにひろびろと眼前に横たわっているかのように待つ辛抱強い者にのみくるのです」

若き詩人への手紙p.25-26(リルケ)

リルケのように、今にあるがままに今を生きると「待つ」も「待たされる」もないのだろう。来るも来ないも疑いなど抱かず、しずかにその場に根を下ろす。こんなふうに大らかに生きていきたい。


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