死は救済か? ー精神病の当事者研究
「死ねば楽になる」 楽になるのは誰?
どれだけ「死にたい」と強く願っても、どうにも死ねそうにない。だから、死ぬことについて考えてみる。
本当に死にたい
本当は死にたくないのか?
本当に「死にたい」と思っているのに、どうしても死ねないでいる。
自分の感情や欲求に従って、絶え間なく選択を重ねる日々を生きていて、「死ぬ」という行為を実践できる気がしない。悔しいくらい、死ねない。
こればっかりは死んでみないと、実際のところはわからないのだが、希死念慮に駆られながらも、"死ぬ"その瞬間について考えるととき、あまりの現実味のなさに驚かされる。
具体的に「死」という結果に向けて身を投じるための、そのエネルギーを発生させられるだろうか?具体的に言えば、屋上の端に立ったとして、飛び降りるという行動を起こせるだろうか?(どの手段でも、そう)
私にはできないと思うし、できないから、今、生きている。
死にたいと思っても、いつもこれに辿り着いて、何かが起こって奇跡的に今死なないかな?なんて能天気なことを考えて、鬱が過ぎ去るのを待つばかりだ。
ここまでをまとめると、結局「死にたい」とは言っているものの、自分が「死なない」ことをわかっているのだ。それでも「死にたい」がやめられない。
この「死にたい」が言い表したいところは、(もはや当たり前かもしれないが)別のことなのだと思う。
あるとき、精神科のカウンセラーさんに「じゃあ、あなたの本当の願いは何?」ときかれて、まごつきながら「全部無かったことにして欲しいです」と答えたことがある。
なるほど。私は、死にたいのではなくて、「全部無かったことにする」を望んでいるんだ。これなら、より具体的に考えることができる。
"何を"無かったことにしたいのか?
端的に言えば、「生い立ち」とか「自意識」とか「精神病」のあたりでしょう。まあ、ここは深掘りせずとも、私の「死にたい」という欲求の表すところは、実は「死ぬこと」ではなかったことがわかる。
他にも、考えられる言い換えはありそうだ。
「全部無かったことにする」これは人生全体を通して感じている欲求だが、より即物的な表現として「死にたい」が現れることもある。
誰かと衝突したときや、何かしらの問題や予定に追われているとき。これも、具体的なストレスの原因を指して、「〇〇から逃げたい」「〇〇を手放したい」など、言い換えられるだろう。
死ねば全部終わる
いやいや、でも、死ねば全部解決するんだから、言い換えたって無駄じゃないか。個別具体的な全ての悩みを解決できる、超お手軽な解決法、自殺!!
うっかり惑わされそうな、とても魅力的な誘いである。あまりに魅力的だから、すぐに「死にたい」と口走ってしまう。全てを解決する強さを持っているように思えるから。
ただし、事実として、生き残っている人間は、これだけ魅力的な糸口を前にしても、踏み切れないでいる。極限の飢餓状態で、豊満な果実を見つけたとき、手を伸ばさないなんてことはあるだろうか。
死は救済か?
結論から言うと、死は救済ではない。
「死ねば楽になる」「死ねば全部終わる」
これを端的に「死は救済である」とし、信じることで自死を正当化することができそうだが、少し待っていただきたい。
「私」が「私」である限りにおいて、死は救済たりえない、と思うのだ。
「私」が腹を空かせているとき、「私」が何かを食べれば、「私」が満たされる。同様に、「私」が死にたいとき、「私」が死ねば、…一体、誰が喜ぶのだろう?
つまり、死んでしまっては「救済される主体」ではなくなってしまうのだ。
確かに、死後の世界にそれを見出すことも可能だろう。だが、筆者個人の実感レベルでは、全く死後の「私」が「やったー!楽になったぜ」と思うなんて言うことは信じられない。(第一、自己嫌悪や自意識だけを捨ててあの世に行けるなんて、都合が良すぎる。結局は「何かから逃れたい」だけなのである)
また、「この状況で生き続けること」と「死ぬこと」を比べて、後者を選択するという態度もあり得るし、実際、そういう気持ちになることが多々あるのだが、これも仮構に過ぎない。
辛い状況下で生きている「私」の存在はあっても(感じられても)、死んでいる「私」は存在しないからだ。
「死んでいること」をまだ知らないのに、想像だけでそこに身を投じられないでいる。これも、死なないための言い訳めいた論理なんだろうか。
こうして、死は救済ではないことになる。
(余談として後述するが、それでも死ぬ人間は、ごまんといる。)
救われた魂
私は「死後の世界」に「救済される主体(=私)」を見出すこともできそうだと書いた。それは地獄であったり、天国であったり、霊魂であったり、もしかしたら、転生という可能性もあるかもしれない。
様々な宗教的世界観があり、死後「魂」が救われたり、救われなかったりすると考えられるだろう。(魂という言い方は、かなり不正確かもしれないが)
私には、まるでそういった世界が見えていない。死んだ先には「無」しかないという世界観の中に生きている。もし、「死後」に「魂」のようなものを想定できるようになれば、ふっと死んでしまったりするのだろうか。
考えても答えはないのだが・・・
死ぬということ
全てを失うということ
少し前のところで、(私にとっては)「死にたい」は「全て無かったことにしたい」と言い換えられる、ということを書いた。ここでも、「私」という唯一の存在が関係してくるのではないか。(常に関係しているから辛いのだが)
全てを失うということを想像してみる。もちろん、「全てなかったことにする
」のだから、記憶もなくす想定だ。身体もいらない。知識も物も全てを失うこと。それは、生まれ直しのようで、ある意味では、完全に「他人になる」ことでもありそうだ。
しかし、ここにおいても、やはり「私」という主体は残っている。何もかもを失っても、失ったことを知っている、失った後の「人生」があるということは、「私」が有ることにほかならない。
結局、「私」とは離れられない。全てを失う、というある種の「死の真似事」を想定したって、結局は生きている。本当に、死ぬためには「死ぬ」しかないみたいだ。
これは、他者(動物でも良い)の死とも同じだと思う。友人や家族の死が、どうも悲しいことについて、考えてみたい。とても大事なことだと思うから。
死んだら悲しい
友人が死んだら悲しい。当たり前だ。
でも、生きているか死んでいるかわからない、音信不通の友達に悲しんだりはしない。
なぜだかわからないが、私は他者に「生きていてほしい」と思う。(ここは、また改めて考えたい点ではあるのだが)
連絡先を交換するまでもなく別れた人、インターネットで繋がったけど、今はアカウントが動いていない人、テレビで見た人、友達の友達….
無数の人と出会い、永遠に別れ、すれ違っていく日々の中で、なんとなく、みんなが「生きていてくれたらいいな」と思うし、逆に「死んだら悲しい」と思う。
今は連絡先を知らないかつての同級生が何人もいて、その人たちの人生について、私は知らない。多分、この先関わることもないだろう、という人が多い。
それでも、仮に訃報を聞けば悲しくなるだろう。この先の人生で、交わることがないだろうと思っていても、「死」だけは特別に感情が動くのは、本能的な問題なのだろうか。
例えば、仲良くしている友人が、海外へ赴任するとする。(今の時代はそんなことも珍しいかもしれないが)しばらく音信不通になることもあるだろう。
私は、音信不通になった人が、生きているか死んでいるか、全くわからない。病気を持っていたとか、年齢がいくつだとか、そのような情報を頼りに、なんとなく推測するだけだ。
その時、心配をしたり、会いたくなったり、安否を確認したくなったりしても、特別悲しくなったりしないだろう。だが、もし死んでいたら、悲しい。
その友人と、この先会うことがなかったとしたら、死んでいても、生きていても、同じである。冷たい言い方だが、どっちでもいいはずだ。
でも、やっぱりどうしても、生きててほしいと思う。逆に、安否が確認できなかった友達が生きていることがわかれば、心底嬉しい。この先関わることがなくたって、生きているという情報が与えられるだけで、なぜかよかったなあ、と思う。
その人が、どれだけ大変な目に遭っていても、命以外の全てを失っても、人は無神経にも「生きていてよかった」と思うし、口にする。
それだけ、「死」というものは極限にある。それは感知することもできないが、知識の極限に、不穏なものとしてそれはあるような気がする。
「私」という主体がそれを失うのはもってのほか、他者も「生」を保持していることを願っている。人間は、生きている限り「私」という主体を持ち、死ぬことでそれを失う。死を望みながらも、望んだ先に享受できるものは、死んでしまったらなくなるのだ。
ここまで考えてわかることは、私は「私」をどうしても手放せないということだ。私というパーソナリティや自意識のことは気に入らなくても、「私」という機能、例えば、こうして考えることや何かを感じることは、どうやら気に入っているらしい。
そういう問題ではなく、単に生物として死を拒絶しているだけだという可能性もあるが、当面は「自己愛が強すぎる故に、死ねない」という結論でもよさそうだ。その場合の「自己愛」はいわゆるそれではなく、「自己」という機能を愛するという意味で。
【余談】死んでいった人たちに思う
筆者は、祖母と父を自死で亡くしている。「死ねない」理由として、このNoteでは根源的な部分について書いたつもりだが、生活レベルで「死なない」を実行する理由があるとすれば、やはり家族の自死である。
祖母が自死で亡くなり、8年後に、その実子である父が亡くなった。8年間で家族は簡単に崩壊してしまった。(もちろん、祖母は原因の一つに過ぎないが)母を失った父の悲しみや動揺が、家族の成員に伝播し、取り返しのつかないような事態が、繰り返し起こった。
祖母の死を経て、より近しい(私の)父が亡くなったとき、周りに与える影響がどれだけ大きいかがわかった。家族や友人、仕事仲間など、どのような関係であっても、自死で失う経験は辛い。
それを知ってしまった上で、「死んでやろう!」と思うほど、私は身勝手ではない(と、思うことにしたい)。ありがたいことに、私が自殺でもすれば、悲しんでくれる人の顔が際限なく浮かぶ。きっと、すぐに忘れたり、美化してくれるんだろうけど、「関わってきた人の心に影を落としたくない!」と思えるくらいには、人のことが好きっぽい。
ただ、こんなことも考えられないほど、「死にたい」が勝ってしまうような時に、ここに書いたようなことを思うのである。
ところで、
父の死は救済だったのだろうか?
遺書もなければ、本音を聞いたこともなく、全て想像になってしまうのだが、もちろん救済ではない。主体がいないから。
という私の理論的な問題だけではなく、やっぱり、身勝手な実感として「勝ち逃げはやめろ」と思ってしまう。同じ家族という共同体の構成員として、同じ地獄を共有していたはずなのに、さすがにズルすぎる。
私が死ぬ瞬間に「ああ、こういうことだったんだね」と優しさや同情を込めて思うまでは、彼の自死には反対させていただきたい。きっと、彼も「死後の世界」とか、大して信じてもいない、死ぬための仮構物、口実を狭い視野の中で作り上げて、熱の冷めやらないうちに死んだんでしょう。
でも、「冷静に考えて、あの自殺は間違いだったな」と思える主体も、どうやらいなさそうなわけです。だから、死が主体にとって救済ではありえないけど、後悔をする対象ともなりえないわけで、結局、やはり「無」なのである。
脳がぶっ壊れているときに、興奮状態の中で死に飛び込んでいくか、「無」を乗り越えるという、極限を超える強い意識を得るか。死ぬには、この2つしかない気がするが、どうも当面は「無」を受け入れられる気がしない。
(不本意ながらも、)愛する「自己」を抱えて、理論武装して今日も生きている。