気づくとなぜか曲解してまうのは?
こんにちわ。
@osamu036110です。
なぜ、無意識に相手の顔色をうかがうのか?
人にだまされたりすると、物事まっすぐ見れなくなる。
何かやりとりをしていて、以前も同じようなことがあった事だと感じると、その時と同じように解釈をして、相手に誤解をまねくようなことがある。
日常の忙殺した生活であれば、まわりで起きていることに、勝手な解釈をして生活していることが増えていく。
曲がった解釈をしている、それが「曲解」
そもそも、なんで「曲解」してしまうのか?
普通であれば、素直に見て、素直にものごとの判断をして、相手に対しても誤解なく、気持ちの良いやりとりをした関係を持ちたいはずなのに。
「曲解」する必要がなければ、わざわざ曲げて解釈することはない。
「環境」と「習慣」
「もっと素直になったほうがいいよ」
「なんで、いつもそんなに早とちりしちゃうの」
「全然、そんなふうに思っていないのに」
「そんな感じで捉えなくても、みんなもそうしているよ」
「なんで、そんなにイライラしているの」
正しい積み重ねができる環境でなく、それが習慣になってしまい、おそらく自分では無意識にそう解釈することが常態化してしまっている。
なぜなのか?
一度でも「曲解」をすると、あらゆることへそれが伝播していってしまう。
そんなふうに思いたくなくても、相手に対して、物事に対して、そういう目で、無意識に観ている自分に気づく時がある。ふと、
「なんで、こんな言動を俺は勝手に相手にしてしまっているのか」
自己肯定感や自己受容が低い
あらゆることに、小さな「曲解」を幼少期から繰り返していると、
「素直に笑えない」
「素直にお願いすることができない」
「素直に感情を伝えられない」
「素直に確認できない」
「素直にできないことを相手に共有できない」
そんな「曲解」してしまう自分に、自己肯定感や自己受容することを持たせるのは、少々酷なような気がする。
ある一定期間は、自己肯定感があるように観えても、一定期間が過ぎると、ものすごく自己嫌悪に落ち入り、曲解する行動を無意識にしている。
自分の満たされない欲求に、欲求のすり替えをして自己満足をする。
幼少期からできた、ものごとを「曲解」してしまう自分。
それは、長い期間をかけて常態化している「曲解」ではあるけど、後から作られた「曲解」であれば、「曲解」しない選択肢もあっていいはず。
「曲解」しない素直な解釈をするには?
私の経験で言えば、常に「曲解」をしてしまう環境、習慣になっている。
その「曲解」する自分を受け入れてもらう必要がある。
素直に「曲解」している自分を伝えられて、身内ではない第三者の他人に何でも話せる存在がいると、「曲解」している感情も流せるようになる。
「ああ、俺、今曲解しているんだな」
「さっきは、曲解していたんであんな言い方してました」
「なんかクセで、相手の意見を曲解しちゃうんです」
「素直になりたいんで、なんか曲解してたら言ってくださいね」
そんな素直な状態が続くと、あらゆることへ素直になる自分を感じる。
できるだけ、「曲解」せずに、素直な自分の方が快適に生活できる。