演技における居心地の悪さ②
読書と内言
私たちは「読書」という能力が人間にとって当たり前のものであるかのように思っていますが、しかしそこで行われていることは全く一様ではないとマシュー・ルベリー『読めない人が「読む」世界』(片桐晶訳、原書房、2024)で言われています。
この本、三日くらい前に初めて読んだのですが、まさに私が前回の記事で問題にしたこととほぼ重なる内容を書いてくれていると感じられました。私たちは「同じ本」を前にしたとき、「同じ読書」をしているのではない。「意味の解釈」が異なるだけではない。「意味」なるものとの接し方がそもそも違うのだ。
例えば同じハンマーを前にしたときに、私たちが柄を持って釘を打つ道具として認識するのに対して、ハエはそれを羽休めする場所として認識するかもしれない(ユクスキュル)。批評家や読者たちが、「同じ本」について語ろうとするとき、そういう既存のルールのもとで読解ゲームをすることの意義も崇高さも楽しさも分かるし、私もそれに興じることも多いのだけど、ルールの外の広がりに気がいってしまうことも少なくないのです。
いったん些末な話から出発すると、読書とは著者との対話であるというお決まりの文句、私にとってこれは単なる比喩ではありません。対話することでしか読めない。というより、あまりにも本の読めなかった私は、いつの間にか対話的読書という方法をとるようなっていました。
以下の写真はチャールズ・ファニーハフ『おしゃべりな脳の研究』(柳沢圭子訳、みすず書房、2022)。読書中の私のメモが残っています。
「hm」、「hm―…」、「um」、「m」、「成――….」、「bien」、「良い」、「ええ!!」、「…」など。ちなみに「成」は「成程」の略です。また、感覚的に書いているので厳密ではありませんが、本当に納得できたときは「成.」、納得したような気がするが…しかし…みたいなニュアンスのときは「成――….」、少し留保はつくもののひとまず納得した、みたいなときは「――成.」などと書いていると思います。他にも、1~2行のまとめメモがあったり、「hm?」、「!?」、「ho…」、「ha――」、あるいは大きな文字で「これこそ演劇の問題だ」などと書いてあったり、様々なバリエーションがあります。
私は読書中の集中力が、若干欠けている、ことがままある。過去の微妙に失敗したコミュニケーションを思い出して苦々しく思ったりとか、あるいはこの人に出会ったらこんなことをこんな風に喋るかもなー、みたいなシミュレーションをしたりとか、いずれにせよ本とは全く関係のないことが頻繁に頭をめぐってしまい、1ページ進むのに5分、10分、みたいなことはザラにあります。「本に集中しているのだ」という態度を自らに対して仮構することで、ようやく読めている、気がします。
さて写真の『おしゃべりな脳の研究』。著者のファニーハフは、ヴィゴツキーの提起した内言(声に出さない内側の言語=思考)の問題を、神経生理学などの知見を通じて多角的に論究しようとしています。私たちが脳内で言語を処理するときに、そこでは一体何が起きているのか。挙げられているエピソードが全部面白い。例えば写真右側p.92。早口の人が書いた文章と、ゆっくり喋る人の文章とを両方黙読したとき、読者が前者を早く読んでしまったという結果が出たらしい、等。ちなみに、ここでは実際に喋る声を聞かせてから実験が行われていますが、後では「この人は早口で喋るよ」と情報を与えられただけでも同じ結果が得られたという研究結果が紹介されています(p.98)。
左側p.93では、小説を読む際に、読者の中でどういう声が再生されているのかということが問題にされています。多くの人が、登場人物の声が聞こえてくると証言しているそうです。ただ、私がまわりに聞いて回った限りでは、まだ6人程度ですが、明確に声が聞こえると言っている人はいませんでした。もしかしたら文化圏の違いの影響もあるのかもしれませんが、いずれにせよもう少し調査が必要そうです。
黙読が比較的新しい営みであって、人間に本来的に備わっているものではなく、文化的、後天的なものであるというのは、次第に知られてきていることでしょう。三宅香帆『なぜ働いていると本が読めなくなるのか』(集英社新書、2024)でも、日本で黙読が広まったのが明治に入ってからだと紹介されていますが、西洋では四世紀末に、他人の「黙読」に初めて遭遇しいぶかしがるアウグスティヌスの記述を見ることができます(『告白』)。
(少し脱線になりますが、世界最古の演劇論とされるアリストテレス『詩学』では、戯曲では物語の筋が最も重要なので、身体表現の必要はなく、読むこと:ανάγνωσις(アナグノーシス)で事足りる、といった趣旨の記述があります(1462 a10 )。そのため、『詩学』は「演劇論」ではなくあくまで「戯曲論」でしかないよね、などと言われたりもします。ところが、当時はやはり黙読は存在しなかったか、少なくとも一般的ではなかったわけです。したがってここで「読む」というのは、人前で朗読をすることを意味しており、聴衆のことが前提とされ、少なくとも物理的な「声」が前提とされていたということになるでしょう(これはジャン=リュック・ナンシーとラクー=ラバルトの往復書簡『舞台』(未邦訳)で主題の一つにされています)。演劇史にとっても文学史にとっても極めて重要なことなので、ひとまず記しておくこととします)。
高瀬隼子と内言の問題
内言が生じるのは、黙読のときだけではありません。私の場合、読書に際しては「過去の場面の想起」や「未来のシミュレーション」が生じてしまうことが多く、内言とはまた違った経験に感じられるのですが、それ以外のときでも内言の経験はかなり少ない方だと思います(どちらかといえば言語化するよりも、五感に開かれているという印象が強い)。が、私の友人には「ずっと喋りっぱなしで、論理的に状況をまとめたり、感情を客観的に語ったりする」という人もいました。相当に人それぞれのようです。
さて芥川賞作家、高瀬隼子の作品の登場人物たちにも、この内言が度々強烈に聞こえてきているのを確認することができます。例えば『犬のかたちをしているもの』では、主人公・薫が自らの内言に言及しています。「子どものことを考える時はなぜか思考が言葉になって頭に浮かぶ。それは標準語で、自分が生まれた土地で慣れ親しんできた言葉ではない。小説を読んでいるみたいに、自分の思考が文章になって浮かぶ、そういう仕方で、わたしは子どものことを考える」(p.89)。
ここでの声は、自らの直面している状況を考え直すための、「客観的」な内言と言えるかもしれません。しかし高瀬作品における内言は、充分にコントロールされた冷静なものにとどまりません。それは明確に誰かの声だったり、知らない人のぼやけた声だったりしますが、いずれにせよ嫌でも聞こえてきてしまい、自らの思考や感情をゆさぶってくる(あるいは逆に、思考や感情が乱れたときに聞こえてきてしまう)、大半がそういう内言なのです。ごく一部、例を紹介します。
内言の在り方は様々です。誰かの言葉がそのまま再生されたり、他の人の声で再生されたり、ただどこかで目にしてしまった(気がする)だけの言葉に声が与えられたり。
『水たまりで息をする』は、内言が主題の一つになっていると言っても良いような作品です。主人公・衣津実の夫が急に風呂に入らなくなったという状況に即して、話は進行します。あまりに異常な状況で、衣津実も相当に困惑しています。三人称小説ということもあって、描写は比較的淡々となされるのですが、内言が登場するとき、感情の色合いがぐっと表現されます。
最序盤に、結婚生活が「おままごとみたい」と義母に言われた、という記憶がさらっと語られています(p.10)。私は最初読み飛ばしてしまったのですが、どうやら衣津実にはこれが絶望的に不愉快だったらしい、ということがここでの内言によって顕在化します。実際の「おままごとみたい」という言葉が再編成され、強烈な語気もった内言として現れるのです。読者からすると「あのときの描写にはこんな思いが込められていたのか」と追認させられる、表現の妙がここにあると言えるでしょう。
また、この聞こえてきてしまう内言のドラマ性を増幅するために、他にも様々な技巧が介在しています。スタンダードな文芸批評みたいなことも書いておこうと思いますが、以下の箇所では「自由直接話法」が用いられています。三人称小説であるにもかかわらず、主人公の言葉が地の文でそのまま登場する。語り手の視点を無化して、人物の言葉を直接に表現することで、感情の存在感が急に前景化してくるのです。
内言という、誰の言葉なのかいまいち判然としない言葉を扱うなかで、こうした「語り」の位相をかき乱す表現は極めて有効だと感じられました(なお最終盤に、極めて優れた内言の表現もあるので、それは是非実際お読みいただければと思います……)。
若干の余談ですが、高瀬作品における内言は色んなかたちをとっているにせよ、登場人物たちには「内言の出処が自分である」ことはおおむね認識されています。しかし『おしゃべりな脳の研究』で記述されている、「誰かの声がどこかから聞こえる」という「聴声」の経験は、これとはまた異なります。宗教の開祖や、いわゆる統合失調症と呼ばれる人たちは、自分以外の声が「実際に」聞こえてきてしまうことが多い。それが自分の発している声だと気付くことができないのです。
大脳には言葉を発するときに活発になる「ブローカ野」と、言葉を受け取るときにはたらく「ウェルニッケ野」という箇所があるのですが、この二つの領域は「弓状束」という神経でつながっているそうです。そして自分が言葉を発したときに、「これは自分の声だから気にしなくて良いよ、受け取らなくて良いよ」という信号が、ブローカ野からウェルニッケ野に送られるとのこと。ところが、この弓状束に異常が生じると、自分が脳内で発したにもかかわらず、自分の言葉だと認識できない状況になったりするそうです。これが、聴声の経験につながっているのではないか、ということでした。
さらに面白いことに、プラトンより以前の古代ギリシャ人たちにとっては、聴声が当たり前だったのかもしれない、ということが示唆されています……あまりにも興味深い話で、例えばジャック・デリダの哲学の一つの基礎をなす「s’entendre-parler(自らの声を聴く)批判」を捉え直すためにも重要だと思われるのですが、本題から外れすぎてしまいそうなので(そしてまだ考えがまとまりそうにないので)、ひとまず後回しにいたします。
演技における居心地の悪さ
さて、もう一つ高瀬隼子の作品群の特徴として、「演技」の問題があります。演技ばかりしていてほんとうの自分はどこにあるのか、といった問いもあります。ただ、それにはとどまらず、一層厄介なところで悶えている登場人物たちが描かれています。
社会生活における演技の問題を考えるために、まさにそのテーマに貫かれている奥村隆の著作に触れておきましょう。奥村は、コミュニケーションが苦手だと自認しているがゆえに『反コミュニケーション論』というコミュニカティブな(過去の思想家たちとの対話を創作した)本(名著!)を書くような、奇特な社会学者です。以下で紹介する『他者といる技法』は1998年に出版された本ですが、今年の2月、ちくま学芸文庫で再刊されたのを機に、私も初めて手に取りましたが、今まさに読まれるべき本だと思わされました。
序章から極めてクリティカルな問題提起がなされます。奥村は次のように想像することを促します。「他者がある瞬間から、あなたに対していっさいの表情を顔に浮かべるのを止めてしまったとしたら。彼(女)はうなずきも微笑みもしない。あるいは、あなた自身のほうが、突然自分の顔から表情を、うなずきや微笑みを剝ぎ取ったとしたら。このときふたりがいる場所ではなにが起こるだろうか?」(p.11)
私たちは他者とうまくやっていくために、「自然に」表情をつくり変えています。無表情や「こころに正直な表情」はこの社会にそぐわないと、自覚的にせよ、無自覚にせよ、私たちはよく知っている。「社会的微笑」という言葉を最近知りました。生後2か月程度の赤ちゃんでも、口角をあげるなどして「微笑(に見えるもの)」を模倣的に獲得するといったことのようですね。表情の演技は、演技への意識がめばえる前から既に獲得されているのだとも言えるでしょう。
大人としてうまくやっていくために、社会を成立させるために、表情の演技が必要であることはもはや問われるまでもない前提として受け入れられていることでしょう。なるほどそれは、必要なことだとも感じられます。しかし奥村はただ演技を受け入れるべきだと言っているのではありません。こうした演技に内在する強烈なアンビヴァレンスを問題にしているのです。高瀬作品を読むと、奥村隆の問題設定がよりよく理解されるようになるかもしれません。
『いい子のあくび』の直子は、他の高瀬作品の登場人物に比べると、「演じている自分」をしたたかに受け入れている感があります。隠している「本音」も無数にあって、それを自覚し、手帳に記したり気心の知れた友人に打ち明けることでバランスを保っています。しかしそれでも「演技」をめぐる憤りは強烈です。ただし、その憤りが自分に対してよりも、どちらかというと他人に向かっています。すなわち、「演技」に無自覚な人たちに。
「30代後半」「男性」の「会社員」の「上司」、「一児の父」である桐谷さんは、自らの属性を省みたことがないように見えます。そして相手のことも属性に即して理解している。自/他ともに、何らかの社会的演技を引き受けてしまっているかもしれない、などとは考えもしないのです。そのために、取引先とのほぼ接待のような飲み会にも頻繁に直子を駆り出します。みんなのためを思って。本気で。
直子は与えられた役回りはこなしてしまいます。こなすことができてしまいます。皆演技が下手すぎる、それを時には羨ましくも思う。しかし前回の記事の言葉で言うなら「しわ寄せ」がきているのを、作品中の言葉で言えば「わりにあわない」ことを強く感じてしまう。
そのため直子は、「本音」をもう少し世間に知らしめる……とまではいかなくとも、本音を世界に忍ばせようとして、他者にはたらきかけてしまうことがあります。あたかも偶然を装って。直接の言葉は手帳の奥に秘めたまま。それが冒頭の、スマートフォンを見ながら自転車を運転している中学生との衝突、という仕方で現れることになるのです。
さて奥村隆は、ホックシールドの議論を引きながら、「感情を演じること」の厄介さについて書いています。冠婚葬祭などでは、その場に適した感情があるとされているでしょう。葬儀の場でニコニコ、結婚式場でムスっとしているのはおかしいと思われてしまいます。しかしもちろん、「本心」がその「適切な感情」と一致しないときだってあるはずです。そういうときにどうするのか? とりあえず表情だけ作る、「表層演技」が一つの解答です。高瀬作品の登場人物たちもよくそうしています。しかし、心の底から自らを作り上げる、「深層演技」の方法があるとされます。「つまり「感じるべきこと」を「感じようとする(try to feel)」こと、友人の状況を思い浮かべるよう努力してじっさいに「悲しくなる」というやり方だ」(『他者といる技法』p.170)。心そのものをコントロールすること。自らを感情ごとつくり変えてしまうこと。
ホックシールド=奥村による表層/深層演技の議論はそれ自体で十分に示唆的ですが、そういった枠組みを超え出るものが、小説の登場人物には存しています。上の引用は、衝撃的なことを聞かされた後、道端でのシーンです。ここでは誰に見せるでもなく、自分のために演技をしていることになります。いったい何故か。「あるべき姿」にあわせるためにそうしていると言えばそうかもしれませんが、直前の記述など鑑みると、どうやら単純には言えない。当人の「冷静」という言葉のみを信じるわけにはいかない。
様々な概念化をすり抜ける、演技の機微があって、それは自分でもよく分からないかもしれませんが、しかし他人にはもっと分からない。親や上司、あるいは社会などといった、陰に陽に演技を強いてくる演出家に身を委ねるだけでなく、寄ってしまったしわを少しでも均すために、演技主体が、自らの演技について思索を深めねばならないのではないか。これが、ひとまず私の抱えている問題設定です(なお、「感情労働」の概念を提起したことで有名なホックシールドですが、彼女の主著『管理される心』で、初めて体系的な演技論を書いた演出家スタニスラフスキーが議論の中心に据えられているのは大変重要です。要検討)。
※ちなみに。冒頭で写真を載せましたが、これがグレーなことは承知しています。端的にいえば、これは「引用の必然性」などに違反している可能性があります。一応今回の話に「必然的に」関係する見開きを選んだつもりですが、前後の部分にどうしても「直接には」無関係な箇所が入ってきてしまう。しかも今回は「紙面」への私のメモも一つの主題であったが故に、事態はいっそう複雑です。
しかし「批評」なる営みに際して何かを引用するとき、その対象は「字面」ないしその「意味内容」だけに限定されねばならないのでしょうか。そんな限定が、厳密に可能なのでしょうか。 ファニーハフやルベリーはその考えに同意するでしょうか。
無法に何をやっても良いというわけではもちろんありません。私もなるべく当の書籍に興味を持ってもらうように書いたつもりです(善意があれば免罪されるというわけでもありませんが)。いずれにせよ『おしゃべりな脳の研究』は、今後「ものを考える」とか、「本を読む」とかいったことを考えるにあたって、必読の一冊になるはずですので、是非以下のリンクからお買い求めください。演技と社会の問題を考えるのには、『他者といる技法』。両者とも高瀬隼子作品の副読本にもなると思います。
※4~5000字に抑えたいと思っているのですが、どうも長くなってしまう。次回以降は、私情もあり、もう少し短めになるかと思います。