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NPOサポセン読書会 柄谷行人『世界史の実験』第一部・実験の史学をめぐってーーⅡ 実験の文学批評レジュメ

島崎藤村


1.島崎藤村
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 歴史の自然実験において、柳田の仕事を見るときに、島崎藤村と比較するのが良い。
両者は雑誌『文學界』で新体詩により注目される存在として登場した。(新体詩は、和歌から近代詩の移行過程から生まれたジャンルである)まもなく、国木田独歩らとともに『抒情詩』という雑誌を発刊する過程でお互いを知り合う。
 柳田は1898年(明治31年)、体調を崩し伊良湖岬の突端で静養生活した際、海岸に流れ着いた南洋の椰子の実を見つけた。それはのちに柳田の著書「海上の道」のヒントになったと思われるが、その話を東京に帰京した際、島崎藤村に話した。それにヒントを得て、島崎は「椰子の実」という有名な詩作を発表する。
だが柳田の心中では、本来自分は和歌の伝統から出た人間であるという認識であった。だがそれでも『文學界』時代の柳田はロマン主義的新体詩の作者として人かたならぬ才能を示していた。
 しかしながら彼は大学を卒業すると農商務省の役人となり、さらに翌年に柳田家の婿養子となり、文学仲間を驚かせた。(本名は松岡)。
 実は柳田の生活においては大学入学後、相次いで両親を失っており、生活上の鬱積が生じていた。そのロマンチシズムから林業でも学んで、実業から距離を置こうと思ったが、数学の知識が必要な林業を専門的に学ぶのは困難で、その当時入ってきた農政学の講義を聞き、農村の研究をしたいと思い、農政学を学んで農商務省に入ることになる。ここにはある種、文学の延長の妥協点を見つけることもできる。(少なくとも、農政官僚時代に柳田が「遠野物語」を書いたころ、文学仲間はロマン主義的な夢想を満たすためのものだと思われた)

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・柳田と島崎、共通する点
両者の父親が平田派神道・国学の熱烈な追求者で、ともに神官になった。
藤村の父、島崎正樹1831年生まれ、柳田の父、松岡操は1832年生まれと生年もほぼ同じ。そして藤村、國男ともに早くに父と離れ、直接に父と対立するようなことはなかった。
藤村の場合、父の生き方を描いた長編、『夜明け前』がある。柳田の場合は、「新国学」と名づけた民俗学、史学の中で父の影響を偲ばせる。

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まず藤村の場合を見てみると、父親・島崎正樹は『夜明け前』の主人公、青山半蔵のモデルになった人物である。正樹は信濃の馬籠(まごめ)宿の本陣・庄屋・問屋を兼ねる家に生まれたが、のちに平田神道の運動に参加した。平田神道は、明治維新のイデオロギーで、明治維新が「王政復古」を掲げる以上、重要かつ不可欠なものであったといえる。それを端的に示すのは、明治新体制において神祇官が最上位に置かれたことである。これは古代律令制に基づく官位であり、全国の神社を掌握して、王政復古の新しい理念を広めるものであった。しかしそれはすぐに太政官管轄下の神祇省に格下げされ、次に神祇省の下で追求された神仏分離(廃仏毀釈)の運動が行き詰まると、神祇省は廃止され、教部省が設置された。平田派の復古=社会革命の運動は維新以後5年で挫折した。
 その結果、神道国教化が制度として実現されるが、それは逆に平田派が追求していた復古=社会革命を不可能にするものであった。平田派が仏教や神道諸派を否定したのは、それらが政治的に徳川体制を支える制度になっていたせいでもある。例えば徳川時代、通行手形は主に菩提寺から得ていた。いわば死後の住所によって各人の身元が保障されるようになっていた。その場合、神道も神仏習合のもと、仏教に従属していた。だから神仏分離は神道の、徳川体制からの解放を意味していた。だが明治5年以後、神道は国教化されるとともに、国家機構の一部になったのである。例えば明治憲法では「信仰の自由」が明記されていたが、同時に国家神道は“敬神“の対象であり、宗教的信仰の対象ではない、とみなされた。こうして社会改革を目指す平田派神官は排除され、孤立したのである。このような過程が『夜明け前』の主人公、青山半蔵のモデルとなった藤村の父、島崎正樹のケースの中に端的に示されている。

島崎正樹は平田派国学で世直しを熱烈に指向し、特に山林を古代のように共同所有によって村人皆が自由に使えるようにする改革を求め、森林の使用を制限する尾張藩を批判していた。正樹は明治以後、木曽山林の解放運動に奔走した。その後、神祇省の廃止が示すように、西洋文化を導入する文明開化を政府は進めるとともに、農民が山林を共有材として利用することを禁じた。山林国有化(皇室財産化)を推進したのである。正樹はこれに対して抗議運動を起こすが、戸長を解任され、それ以後も苦難と孤立を経験する。1881年、天皇の北陸巡行に際し直訴を試み、叱責されるなどの挫折を繰り返した末、発狂して放火、座敷牢に入れられ、1886年に56歳で死去する。島崎正樹は、天皇に直訴をする1881年に当時9歳の藤村を東京に送っている。正樹は藤村に7〜8歳頃から荀子を暗唱させており、自分の望みを受け継ぐ子だと思っていたようだ。だが4年後にその子に東京であった際、どうやら正樹は追っても遠くなるばかりの子のようだと気づき、悄然として郷里に帰った後、その子から「国学」ではなく「英学」をやりたいという手紙が届く。それから間も無く放火。発狂したとされて、座敷牢に閉じ込められる。

実際は、これは『夜明け前』の創作でもあり、必ずしも事実と一緒ではない。ただ藤村が上京後は西洋派となり、さらにキリスト教徒になったこと。その意味では父の期待を裏切ったのは確かだ。藤村が父を見捨てたという罪意識を持っていたことは疑いなく、そのことは第一次対戦中にパリに滞在したことを書いた『新生』(1919)にも書かれている。
ここで藤村は、父が信じていた神道を受け継かず、キリスト教徒となって西洋に滞在している自分こそ、実は父のライフワークを受け継ぐものなのだ、と考えるに至る。しかしそれが具体的にどういうことなのかは書かれていない。そこからみると、彼が小説家としてその課題を果たしたのが『夜明け前』であろう(第1部が1932年、第2部が1935年に刊行)。これは青山半蔵という人物の生涯を、歴史的な文脈で見ることであり、同時に明治維新とはいかなるものであったかを示す作品だった。
 しかし藤村は『夜明け前』を書いただけでは済まなかった。ある意味で、維新の活動家のように振る舞い始める。1935年に夜明け前を刊行した後、日本ペンクラブ会長になった。ペンクラブは、1920年代に生まれた国際的な「実験」の一つでもあった。こちらも1930年代に、国際連盟同様、骨抜きにされてしまった。1936年に国際ペンクラブ総会に参加し、雪舟について講演する。
 以後、島崎藤村は「東洋の再認識」と「古代日本に帰れ」という方向に向かう。これは平田国学の方向であった。また1941年に、藤村が当時の陸軍大臣・東條英機が示達した『戦陣訓』の文案作成に参画したことも注意すべきである。特にこの中の「生きて虜囚の辱を受けず」という一節が大きな影響を及ぼしたと言われる。

 このような藤村の変化は、平田派の父の期待を裏切り西洋派になったことへの悔恨悔悟の現れと見ることができるかもしれない。しかし、平田篤胤は必ずしも単純な排外主義ではなかった。平田篤胤は、本居宣長の言う「古道」にあきたらず、そこに無いものをキリスト教から取り込んだ人だった。例えば人は死んだら黄泉の国、根の国、つまり地底の底に行くと考えられた。宣長の考えては人はその運命を逃れられない。宣長によれば、人が仏教で悟りを得たから、あるいは救済を信じるから、もはや死に拘泥しないと言うのは漢意(からごころ)的な欺瞞であるという。人は死ねば黄泉の国に行く。したがって、死ぬことは単に悲しいこと。ところが、宣長自身は浄土教の門徒であって、死後魂が地底に留まるとは考えていなかったはずである。実際彼は、遺言書、葬式の手筈を詳しく書き残して逝った。(宣長門人にとっての謎である)

 それに対して、篤胤は超越的で人を救済するような神を見出そうとした。そしてその鍵を中国にきたイエズス会宣教師、マリオリッチが漢文で著述した『天主主義』に見出した。

 “リッチによれば、神の国は単なる未来の約束ではなく、現在の生活の中にすでに存在しており、信者はその実現に向けて積極的に生きるべきという点が強調される。これは、社会的・倫理的な行動においても「神の支配」を意識し、愛と正義に基づく行動を取るべきだというメッセージを含んでいる。また、この本では、キリスト教の神学的理念が現代社会や文化にどのように影響を与えるべきかについても論じられており、神の国が現実の生活とどのように結びついているのかを問い直している”(ChatGPTより)

 篤胤はそれを取り入れた神道の体系を構築した。
 しかし同時に、彼は独自の「本地垂迹説」を唱え、キリスト教などの外国の宗教は、元を辿れば日本の神道が外に伝わったものだと主張した。そこから、平田神道に固有の国粋主義が生まれた。ある意味ではそれは排外主義ではなく、「外」のものは全て日本から伝わったものだ、という考えに行き着く。
 洗礼を受けた藤村も実は必ずしも平田派を拒否するものではなかった。例えばキリスト教界のリーダーで同志社大学の総長を務めた海老名弾正などは、日本古来の信仰や霊性を研究し、これを基盤としてキリスト教を土着化させることを模索した。言い換えれば日本のキリスト教にナショナリステックな色彩を与え、それは事実上、平田神道を回復することになる。
 日本のキリスト教と平田派の関係はそれほど対立的ではない。例えば藤村は先の戦争を支持したが、1941年にプロテスタント派が結集した「日本基督教団」も、キリスト教徒として、皇国日本の戦争と大東亜共栄圏を支持したのである。  

II  柳田國男

柳田國男


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柳田は、平田神道に関しては否定的だった。
<要するに神道の学者というものは、不自然な新説を吐いて一世を煙に巻いた物であります。決して日本の神社の信仰を代表しようとした物ではありませぬ>(「神道私見」)
<平田の神道はでき得る限り外国に分子を排除するばかりでなく、さらに進んでこちらから侵略的態度に出て(中略)空なる世界統一論者に悦ばれました>(「同前」)

 柳田の父、松岡操(約齊)は、島崎正樹のような政治活動を行なわなかった。彼は徳川時代は医者だったが、その後姫路で教師になり、その間に本居宣長や平田篤胤の国学に熱中して、平田派の神官になった。神官にはなったが、氏子がいなかったため、貧窮を余儀なくされた。故に國男は一時養子に出された後に医院を開いていた次兄に引き取られ、のちに東京で医学部学生をしていた三男のところに移った。柳田は父よりも、兄弟に助けられて育った。
 柳田が影響を受けたのは、広い意味での漢学、あるいは「経世済民」の思想であったようだ。少年期に飢餓があった時、父に教わって「荒政要覧(こうせいようらん)」を読んだことがあり、「飢餓を絶滅しなければならない」という強い気持ちを抱いたようである。
 柳田は大学でヨーロッパの農政学・協同組合論を研究し、卒業論文では、朱子の論を研究して「三倉沿革」を書いた。これは「荒政要覧」につながるような研究である。
(平田篤胤は本居宣長に私淑していたが、宣長は荻生徂徠の影響も受けており、儒学的な「経世済民」の姿勢は貫いている)
柳田は経世済民思想と共に、親も元は医者・兄弟も医者だったこともあり、医者にならなったが父親の医学者としての側面は受け継いだと言えよう。

・森鴎外の存在ーまた、柳田にとって重要なのは16歳の時、医学生だった兄に連れられて森鴎外の門を叩いたことである。鴎外との関係は、彼が単に文学者であるのみならず、軍医であったこと、すなわち、医師であると同時に官僚でもあったことが重要で、柳田が文学をやりつつ官僚になることを考えたのは、経世済民の思想と同時に、身近に森鴎外という範例があったためだと思われる。

 鴎外について言えば、鴎外は陸軍の衛生制度を学ぶため、22歳から4年間ドイツに留学した。その間にドイツやフランスの文学動向を詳しく知り、その中で特にヨーロッパでのロマン主義から自然主義への移行を身近に感じたと思われる。特にエミール・ゾラの自然主義文学。それは「実験」の問題に深く関連している。ゾラはクロード・ベルナールの「実験医学序説」の影響を受けて「実験小説論」を書き、物理研究に限られていた実験方法を生物の研究へと拡大した時代に、ゾラはそれを人類学・社会学に拡張すれば良いと考えた。この方法を駆使して小説を書き、また1895年にフランス陸軍で起きたドレフェス事件でユダヤ人のドレフェス大尉を弁護して闘った。しかしこの実験性や政治性は、日本の自然主義文学には見られなかった。その点は大逆事件の後、石川啄木が『時代閉塞の現状』で痛烈に批判した点である。〈我々日本の青年は未だかつてかの強権に対して何らの確執をも醸したことがないのである>
 柳田は、自然主義についてかなり理解していたはずだ。理解の一つには、そこに「実験」という観点があったからで、それは単なるリアリズム(写実主義)ではなかった。

しかし医学のレベルとなると、「実験」は単に困難であるだけでなく、時に重大な危険を孕む。
→森鴎外の日本陸軍での脚気の原因をめぐる議論(鴎外による陸軍の白米採用継続問題)
日露戦争での陸軍の脚気での死亡はかなりの数にのぼる。しかし、鴎外は公的には自分の誤りを認めず、責任も認めなかった。おそらく官僚として、この過程を聞き知っていた柳田は、「実験」の困難を痛感したはずだ。
<実験というのは素養ある者の、計測あり予測ある観察のことである。これには忍耐と、疑いを解こうとする熱情を有するのである>(「実験の史学」)

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柳田の「実験」性は、医学や自然科学に限定されるような物ではなく、彼の父親がやっていたような国学に関わる問題でもある。彼は父親から国学や神道を受け継いだとしても、平田神道をそのまま受け継いだわけではない。むしろ古代の人間の在り方を探求する学問を唱えた「古学」としての本居宣長に似ていると言える。宣長にすれば、神道学者らがいう日本固有の神道なるもの実は、仏教や道教・儒教から得た理論を用いて体系化したものにすぎない。神道はそのような「理論」ではなく、「事実」、現実に人が生きているありさまに見出さなければならない。その意味で学問は「実験」でなければならない。
宣長は「古(いにしえ)の道」を『古事記』に見出そうとした。しかるに、平田篤胤はそれを「国学」にしてしまった。だからそれは幕末の排外思想として機能してしまった。
しかし篤胤には、宣長になかった美点もあったといえる。柳田の考えでは、宣長の学問には致命的な欠陥があり、それは文献にだけ依拠したということである。篤胤はそうではなかった。したがって、柳田は篤胤の独断性を批判しつつ、全面的に斥けることなく、ある意味で宣長よりもむしろ、篤胤の線でやろうとしたようにも見える。

 本居宣長翁の「玉勝間」を読むたびに、その着眼点凡ならず(中略)同書には一ヶ所ならず「ゐなかに古への技の残れる事」のごとき民俗誌家に深い印象を与える文章が多い。察するに伊勢松坂の鈴屋の書斎へは、多数の知識欲に燃えた青年が諸国から集ってきて、たまたま異なる遠国の人同士が落ち合った場合などは、話はどうしても各国の郷土の生活の比較になり、普通の好奇心のある人ならば、耳を傾けまたは筆記せずにはおられなかったことだろう(後略)」(民間伝承論)

「ゐなかに古へのわざの残れる事」という宣長の言葉はまさにフランス言語地理学のエッセンスを言い当てるものだ。にもかかわらず、宣長はそれを重視することなく、「古典訓話の業」に勤しんだ。篤胤はそれに満足できなかった。柳田も、宣長のいう「根の国」に関して、<根の国を暗いつめたい土の底と考えるなどは、一種神道家の哲学と名付くべきもので、彼らは死者の穢れを厭うあまりに、この解説を仏者に委ね去り(後略)」(「海上の道」)
 それに対して、篤胤は宣長が仏教に任せたこの問題を、神道学者として解決しようとしたといえる。例えば江戸で話題となった霊能者の少年、寅吉に関心を抱き、養子にして9年間世話をした。寅吉は、神仙界を訪れ、そこの住人たちから呪術の修行を受けて帰ってきたという人物。篤胤はこの「天狗小僧」から聞き出した異界・幽界の世界の有り様を『仙境異聞』にまとめた。
 だが、これを持って「実験的」であるとは言えない。柳田が実験とみなすのは、各地で採集した多くの話を「比較」しようとすることだった。民俗学とは、そのような実験であった。
 その結果、宣長の「根の国」に関して、柳田は宣長がネの国を地底と見做したのはネに“根“という漢字を当てたために生じた誤解に過ぎない。例えばネは沖縄では二ライと呼ばれるものに対応し、海の向こうの世界を意味する。ネを漢字で根と記述した結果、地底の世界だと考えられるようになってしまった。そうでないことを知るためには、民間の経験を調べなければならない。柳田が、宣長が「文献」だけに頼り、「実験」をしなかったと批判したのは、この意味である。そしてそのために柳田は民俗学を実験の手段としたといえる。

 平田篤胤は、異界・冥界の世界について霊能者から聞いただけではなく、そのような知を書物から得ようとした時に影響を受けたのは、マテオ・リッチの著作で、リッチは仏教や道教は否定したが、儒教に関しては天帝の思想あるゆえにキリスト教と矛盾しないと考えた。平田篤胤は、リッチの『畸人十篇』を翻訳し、『霊能真柱』や『古史伝』でキリスト教の全能の創造神、三位一体、原罪、死後審判の考えを取り入れた。アメノミカタヌシを創造神、タカミムヒノカミ、カミムスヒノカミを三位一体として見る。また宣長が世の悪を「禍津日神(まがつひ)」という神に帰しているのに対して、篤胤はそれを人間の責任にした。さらに、宣長が人間はすべて黄泉の国に行くと言ったのに対して、死後に審判があると考えた。
 彼はそのようにキリスト教の教義を取り込んだのだが、問題は、彼はそれらはそもそも日本に発したものであり、のちに外に輸出されたものだという特殊な「本地垂迹説」をとったことである。ここから宣長の「古学」になかったような「国学」が生まれてしまった。それらは単なる国粋主義ではなく、すべてが日本から発するというタイプの国際主義である。

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柳田は大学の学位論文『三倉改革』で、イギリスのロバート・オーウェンによって始められた協同組合に対応するものを朱子に見出す仕事をしただけでなく、実際に農商務省の官僚としてそのような仕事に取り組んだ。彼が提唱したのは国家による農民の保護ではなく、農村における「共同自助」であった。

<農業組合なるものは小農を存続せしめてこれに大農と同じ利益を得させしむる方法であるのであります。一言にして申せば大農の欠点を除いて大農の利益を収め、小農の欠点を除いて小農の利益を収める折衷策と見做されているのです>(「時代ト農政」)

 そのために彼は「購買生産組合」「共同工作組合」「開墾組合」、商業や金融を含む協同組合の設立を唱えたのだが、受け入れられず、農商務省から法務省へ移されてしまう。彼はそれ以後も協同組合について考えていたといえる。
例えば『山の人生』で法務省に保管されていた犯罪資料を引用している。それは飢饉の時、山奥で炭焼きの男が、二人の子供に殺してくれと頼まれて、夕日が射す中で二人の首を打ち落としたという事件であった。柳田はこの事件に深い絶望を見た。このような事件が生じたのは、飢饉のせいだけではなく、人々が互いに孤立しているからだと考えた。そして彼らの貧困を「孤立貧」と呼んだ。柳田にとって「貧しさ」は単に物質的なものではなく、むしろ人と人との関係の貧しさにある。これを脱するには「共同自助」しかない。柳田が協同組合について考えたのはそのためであった。
 柳田は1908年に調査旅行で宮崎県の山岳部にある椎葉村を訪れたとき、そのような「共同自助」が現に存在するのを見出して深い感銘を受ける。それはトマス・モアが言う『ユートピア』につながる考えと言えたが、彼はそれを西洋の経験や思想だけから得たのではなく、「共同自助」の運動は日本にも、彼の身近にもあった。例えばそれが木曽山林の平田神道派の運動である。島崎藤村の父親はそれに取り組んだ。その息子が晩年に『夜明け前』を書いたが、息子(藤村)自身はこのような問題に取り組むことはなかった。それに比べると、柳田はむしろその行動において、平田派の活動家に近いものがある。

 そもそも木曽山林の農民運動も、もっと普遍的な歴史的背景がある。トマス・モアが批判したイングランドのエンクロージャー(囲い込み)に近い変化は、1840年代のドイツにもあり、例えばマルクスがライン新聞の記者として最初に出会った事件が、まさに「材木窃盗罪」に関するものであった。それまで農民は共有地で薪などを自由に得ていたが、その頃からそれらが「窃盗罪」と見做されるようになる。同じことが木曽山林地帯であったであろう。マルクスにとって、この入会地事件が出発点となったと言って過言ではない。

 あるいはエンゲルスは16世紀のドイツにあった「農民戦争」、トマス・ミンツァーによる千年王国運動。エンゲルスはそこに「共産主義」見出した。
 日本でも例えば16世紀に加賀で百年ほど続いた一向一揆。これも一向宗仏教に限られるものではなく、明治維新の平田派神道の運動にも類似する。
 この場合その宗教が何であるかは重要ではなく、それによって何がなされたかが問題になる。柳田が平田派神官の父親の意志を受け継いだとしたら、その意味においてである。

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明治維新後、平田派が神祇省を握って「廃仏毀釈」を強行し、五年で失脚した後、神道は国教化したが、そこから外れた平田派神道だけでなく、その他の神道系の諸宗教の存立そのものも危うくした。このことは「大日本帝国憲法」で明示された問題と関連してくる。この憲法では「信仰の自由」を謳うが、神道はキリスト教や仏教その他の諸宗教とは区別され、「信仰」ではなく「敬神」の対象とされた。明治政府は神道を他の宗教と同一レベルに置くことを禁じたのである。これによって例えば他の神道系宗教である大本教や天理教など、一部は国家神道下で弾圧の対象となった。というのも、それらは宗教である以上、敬神の対象である神道を危うくするからである。
 柳田國男がこのような国家神道の問題に直接関与するようになったのは、1906年(明治39年)の神社合祀政策の勅令が出された時である。これは小さな神社を廃して、一町村一神社とするものである。これは神社を宗教ではなく行政手段と見るものだが、この勅令によって1914年までで全国約20万社あった神社のうち約7万社が取り壊された。
→この問題で和歌山で大立ち回りした南方熊楠と柳田の交流が始まり。ある意味で日本における人類学・民俗学の起源はこの二人が出会った時点にあったとも言える。もちろん、2人の動機は違い、南方は自然環境の保存、柳田は神社保存が本来の神道への手がかりだという動機において違っている。
 柳田の考えでは、神道の国教化によって神社は巨大化するだろうが、そこで祀られるのは国家であって、神ではない。小さな村の氏神・先祖神にこそ神道がある。それが彼のいう「固有信仰」であり、民俗学はそれを明らかにするために不可欠なのである。

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柳田はその後間も無く1909年に郷土研究会をはじめ、雑誌「郷土研究」(1913年)を始める。それが柳田にとっての古道の研究会を意味していたことに留意すべきで、『実験の史学」で、彼は<ここにおいてか実験の人文科学、すなわち各人自ら進んで我が疑いに答えんとする研究方法は企てられねばならぬ。新時代の国学は、必ずやこの方向に向かって展開するものと私たちは信じている>。柳田がこれを「新時代の国学」と呼んだことに注意すべき。むろんそれは“いわゆる「国学」“のような排外思考ではない。しかしある意味でそれはやはり「「国学」なのであった。
 1920年代までは柳田の研究で国学あるいは神道の面は目立たなかった。国学ないし神道の面が目立つようになったのは、1930年代に満州事変をきっかけに戦争体制が急激に進められるようになった時期である。柳田がこの時期から国際思考を断念した、あるいは民衆の政治経済的な自立への鍵を見出すことを断念したと言ってもいい。その意味で、柳田は“転向“したのである。彼はこの時期から「一国民俗学」あるいは固有信仰の探求を積極的にはじめたといえる。
 この時期はマルクス主義者が弾圧された時期でもあり、この時に転向した中野重治はじめマルクス主義者たちが柳田の門を叩くようになった。それは彼らの運動に欠けていた認識を柳田に見出そうとするものであった。
 しかし、柳田がこの時期から「一国民俗学」を始めたのは戦争体制への迎合ではなく、むしろ逆であった。むしろ柳田の弟子たちが唱えた比較民俗学の方が、「東亜新秩序」などが唱えられた情勢に迎合するものであった。

 柳田のいう固有信仰とは、人は死ぬと御霊になるが、死んで間もないときは「荒みたま」である。子孫による供養や祀りを受けて浄化されて御霊となる。それが一定の時間が経つと、一つの御霊に融け込む。それが神(氏神)である。氏神すなわち祖霊は故郷の村里を望む山の高みに登って、子孫の家の繁盛を見守る。生と死の往来は自由である。祖霊は盆や正月などにその家に招かれ共食し交流する存在になる。現世に生まれ変わってくることもある。

 しかし、実はこのような考えはありふれたものではない、日本人の多くは聞いたこともないはずのものであった。普通は先祖と言っても近年死んだ身近な先祖の方が大切にされ、さらに父系の先祖のみが考えられており、一個人のための法要が何回も行われる。つまりいつまでも祀られる特別な魂と、そうでないものとが差別されている。しかし固有信仰では、そのような区別はない。
 柳田のこのような考えは1945年の10月に書き終えられた『先祖の話』に集約されると言える。
 彼が言いたいのは、氏神は国家的な制度ではなく、宗教であるということである。つまり氏神は「敬神」ではなく「信仰」の対象である。

 柳田は1930年代に、それまでの「実験の史学」を断念して、固有信仰の探究に向かったが、それが描かれたのが『先祖の話』だと言える。しかしこの時、彼は間も無く新たな「実験」の時が来ることを予感していた。
<今度という今度は十分に確実な、またしても反動の犠牲となってしまわぬような、新たな社会組織が考え出されなければならぬ>。
 彼がいう「社会組織」とは、政治経済的な観点のみならず、生きているものだけではなく、死者、祖霊が入っている。生者と死者、あるいは人間と神の関係をも含むものである。もっと具体的に言えば、柳田はこの時、戦死者の弔いのことを考えていた。

<少なくとも国のために戦って死んだ若人だけは、なんとしてもこれを仏徒のいう無縁ぼとけの列に、疎外しておくわけには行くまいと思う。もちろん国と府県には晴の祭場があり、霊の静まるべきところは設けられてあるが、一方には家々の骨肉相依るの情は無視することができない>(先祖の話)
 柳田の考えでは、外地で死んだ若者たちの霊に行くところがない。いわば裏山のような場所がない。彼らが国家神道が作った靖国神社のような空疎な場所に行くはずがない。
 そこで柳田は子孫をもうけることなく死んだ若者たちの養子となることを提案する。彼らを先祖にするためにである。

 さらに柳田がいう「新たな社会組織」は、このような戦争を二度と起こさないようなものにすることを意味する。彼は枢密院顧問として、新憲法制定の審議に加わった。ここで重要なのは、新憲法、特に第九条が1928年のパリ不戦条約に由来するものだということである。この条約は、国際連盟と同様に、カント的な理念に基づいて作られた。その意味で、1920年代の「歴史の実験」の一環だと言える。


 柳田が9条について言及した資料はないが、彼が「新たな社会組織」を考える上で、戦争における死者を念頭に置いていたのは確実で、彼にとって憲法9条は、過去及び未来の死者に関わるものであったはずである。柳田は西洋哲学の理念とはまた別の観点からやはり「神の国」について考えていた、と言える。

 柳田にとって外地で戦死した若者をどうするかが、何よりも大事であった。それはまた、二度とこのようなことを起こさない、という社会組織を作ることにもなるだろう。そしてそれが憲法9条である。しかも、これは柳田にとって、日本を「神の国」にすることを意味した。敗戦を予期しながら、柳田は「神国日本」について、次のように述べた。

 日本は神国なり。こういう言葉を口にしていた人が、昔は今よりもさらに多かった。私は実はその真意を捉えるのに苦しんだ者だが、少なくともこの一つの点で、すなわち三百年来の宗旨制度によって、うわべは仏教一色に塗りつぶされてから後までも、今に至ってなおこれに同化し得ない部分が、この肝要なる死後信仰の上に、かなり鮮明に残っているということに、心づいたのは嬉しかった。(中略)現在もほぼ古い形のままで、霊はこの国土の中に相隣して止住し、徐々としてこの国の神となろうとしていることを信ずる者が確かに民間にはあるのである。そうして今やこの事実を、単なる風説としてでなく、もっと明瞭に意識しなければならぬ時代が来ているのである。信ずると信じないとは人々の自由であるが、この事実を知るというまでは、我々の役目である(先祖の話)

 この意味での「神国日本」は、「神国日本」を唱えて帝国主義的膨張政策を強行した連中が消えてしまう戦後においてこそ可能である。柳田はそう考えたのではないかと(柄谷)思われる。これは宣長のいう「古道」の回復と同じである。これを文献によってではなく、また篤胤のような理論的独断でもなく、「実験」によって示すこと。この意味で柳田が戦後に「新国学」を唱えた時、父、松岡約斎の思いを受け継いだといえよう。 

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