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原口剛さん(神戸大学大学院准教授)インタビュー前編・3

         関係性への想像力へたどりつくしぶとさ

原口:もうひとつ、ぼくの本でとても重要なことをお伝えしたいのは、釜ヶ崎の労働者と市民社会との距離感というものはそういった違うコミュニティを生きている距離感でもあるんですけれど、目に見えないところでの別の関係性もあるんだということなんです。どういうことかというと、何しろ労働者、しかも下層労働者の街なので、さまざまな物を作っているわけですよね。例えば多くの場合ダムを作っていたり、道路を作っていたり、学校を作っていたりする。その意味でいうと、まったく違うところで僕らは釜ヶ崎の労働者と間接的に関係しているわけです。その関係性がひとつの本質としてあって、その中でインフラであるなり、このビルもそうですし、この都市というものが形成されているわけですから。そういった物質的なレベル、目に見えないレベルで釜ヶ崎労働者と僕らの生活をつないでいるというところにまで想像力を深められるかが重要になってくるんだと思うんです。そのきっかけはやはり最初の衝撃だと思うんですよ。
 最初に街に足を踏み入れると、いろいろなことに衝撃を受けるわけですが、それだけでいいのか。「病理だから何とかしないと」で終わってしまうのか。「いや。ちょっとそれは違うんじゃないか」と真剣に分け入ってそこにある関係性にたどり着くしぶとさと、想像力。それをつなぎとめることができるか。そこに分かれ道があると思います。その想像力というのはいまやぼくにとってすごく重要なものなのであって。というのも、徐々にいま釜ヶ崎の労働市場の機能が低下しているんですが、そういったさまざまに物が作られる中で、取り結ぶ関係性は地球規模で広がっているわけですね。例えば食べているもの、着ているものはどこかで誰かが作っているものを我々は着て歩いている。その関係をどう取り戻すことができるのか?という問いに近づくことがたぶんひとつのリトマス紙で、ぼくにとって釜ヶ崎という場がそれなんです。その怖さの向こう側にどういうふうに突き抜けられるか。その中で自分の中の世界地図をどう組み立て直すことができるかということであって。だからいろいろな問いがその先に出てくる可能性がありますね。

――その世界地図が国内においては釜ヶ崎という場所で...。

原口:はい。そうですね。今までは国内でしたけど、これからはもうそれこそ移民労働力を政府は完全に活用するということを宣言してますから。関係性はもう完全に。かつて釜ヶ崎は農村などの国内移民が多かったですけど、これからは多様なバックボーンを持った人々が寄せ集めて来るわけですから、一緒に暮らすわけですよ。いま釜ヶ崎、怖いところなのかという問い。あるいは怖いところの向こう側に行けるかどうかという問いがこれからの趨勢でますます問われていくことになるに違いない。そのあたりにまで広がっていく。そのような問いとしてあるというのをまずは考えていきたい。

――そういう異質なカルチャーの人たちとも付き合っていく。それはいま、日本人の人も徐々に意識化され始めているところだと思うんですよね。極端な話、自分の親を預けている高齢者施設に外国から来ている人が仕事をされているということもあるでしょうしね。また、技能実習生とか研修生とかという形で安い労働力で使われていく問題もありますし。

原口:それはすさまじく、ですね。

――それは政治問題ですね。それと同時にやはり実際に付き合っていくというか、その人たちはその人たちで出来るコミュニティを作っていくだろうし、そのようなコミュニティとどう付き合っていけるのかという、そのあたりの問題とも向き合っていかなければならない。

原口:そうですね。

――でも片や最終的には街はどんどん浄化されたものになっていく(笑)。

原口:そうなんです、そうなんです。

――(苦笑)それこそ世界中グローバルに似たような形が。まあ固有の文化性みたいなものがなくなっていって、どこへ行ってもコンビニがあり、ドラッグストアがあって。

原口:そうそう。

――そんな状態は面白みがないなあと。まあこれは観光客的な視点なのかもしれないけど、面白みがない街並みになっていってしまいますよね。

原口:そうなんです。どこへ行ってもおんなじような。やっぱり釜ヶ崎を今日歩いていて感じたのは、匂いがなくなるというのは決定的なことだと思ったんです。コンビニとか行ってもどこでもそうですけど。まあコンビニだとせいぜいおでんの匂いですけど、やっぱり商品というのは匂いがしない。

――そうですね。これだけ匂いがないということは、実際に生で焼いたり煮たりしているものを出していないということですよね。


         街の商品化で街と自分が切り離される

原口:だから匂いを出さない。街が匂いを発しなくなる時というのは、徐々に街が商品化されつつあるということのバロメーターだと思います。街が商品になるということは、これはマルクス的ですけど、「自分のものではなくなる」ということですから。つまりは金銭を介さないと買い物が出来なくなるというそういった関係性に街と自分とが切り離されていくということなので。

――そうか~。

原口:やはり基本的には釜ヶ崎の労働者であれ、なくてもそうなんですけど。土地や地表がだんだん自分のものではなくなっていくということの表れだと思うんですよね。

――希薄感という所での孤立感みたいなものは、ある種学校へ行きたくなくなったり、社会参加したくなくなったりすることとも不思議につながりそうな感じですよね。

原口:そうですね。

――「疎外感」というものでしょうか。外の世界は自分がいてもいなくてもいいんじゃないか?みたいな。誰がいてもいいのであれば、自分がいなくてもいいんじゃないか?みたいな。

原口:そう。街が商品になるということは、街が「代えがきく」ということの言い換えでもあります。街が代えがきくということは逆にいうと、自分自身が代えがきくということとパラレルということです。

――そうですね。マニュアル化された仕事になればなるほど、かけがえのない自分として受け入れられているかいないか、分からなくなってくる。

原口:そうなってくるとやはりこれも評価が難しいところですけど、街に縛りつけられることの良し悪しがあると思うのですけれども。ただ、もうひとつ思ったのはこの本(『ひきこもる心のケア』)をパラパラと読んでいて感じたんですけども、ずっと自分の中で課題になっているのは、これから「空間の奪い返し方」がずっと気になっていて。実は僕らの世代の原体験というのは*「テント村」活動とその闘争なんです。テント村というのは自分たちで自分たちの空間を作っちゃうということですし、村を作っちゃうということですし。

――野宿者の人たちとですか?

原口:野宿者の人たちが中心なんですけれど、そこにいろいろな人たちが集まってくるんです。いわゆる精神的にしんどい若者も、当時の僕らと同世代の若者も。それに惹きつけられてきたというのがあるんです。いろんな人たちを寄せ集める、寄り集まるテント村自体がのろしになったということがあって。で、テント村があることである種ドロップアウトしてもいいんだと。変な話ですけど、実際そういったメッセージで受け止めた人もいる空間としてあったんですよ。で、そういった空間がだんだん減っている。自分たち自身で勝手に作ってしまえる空間が特に都心から減らされちゃっているというのは、これはもう大問題としてあるということと、ただ、どういう風に抵抗の主体性が考えられるかというときにあんまりテント村にこだわりすぎるのもまずいかなということがありまして。
 というのも、当時の野宿者の人たちというのは、多くの場合元日雇い労働者だったんです。しかも元建設の日雇い労働者だったわけです。ですから労働に対するプライドというのはすごくあるわけですね。技術もありますから。だからこそ公園に放り出されたとき自分たち自身で家を建てちゃう。建設労働者ですから家を建てられるわけです。あと、「意地」もあるわけですね。国の世話にはならないという。それゆえに社会サービスを拒否したりするんですけど。でも自律的な空間を作ることができた。そこにいろんな人たちが寄り集まってきた。で、そのコアにあるのはやはり「労働に対する誇り」であるというものがあった。多くの場合これは日本特有の環境で、野宿者の多くが元日雇い建設労働者、元港湾労働者だったり、要するに職人肌の人たち。でもこれからは欧米でいうホームレスがそうなんですけど、本当に就労経験がないし、最初から賃労働に入ることすら拒まれているような、そういった層が今後たぶん貧困層に墜ちていくし、ホームレスの内実を作っていくと考えたとき、同じような形でかつての野宿生活者が持っていたような労働へのプライド、労働へ依拠した形で対抗できる空間を作るイメージをしてしまうと間違ってしまうかな、と思います。「労働」はある意味でこれまでの寄せ場の素晴らしい点でもあり、限界でもあったわけですけれども、それは生存やサバイバルの空間をこれから展望していく上ではまた違う形で考えていかないと現実に対応できないだろう。同じような形で生存の空間を作っていくのは難しいかなと思うんですね。その時にじゃあ依拠するような軸となる、かつては労働だった。その労働のこだわりに変わる軸になるのは何だろう?僕自身まだ見えていないのですが。

――難しいですねえ……。う~ん。先駆的にそうなった国はありますかね?


            賃労働関係なしの獲得運動

原口:海外では、日本でまだ意識的に試みられていないのはスクウォット(占拠)ですよね。空き家の占拠ですね。そういったものはまだですね。寄せ場もいろいろスクウォットはやっているんですけれども、それは意識的にはやっていないので。やっぱり生産現場での抵抗が一番の抵抗としてあるという、そこでの「自分たちこそが労働者だ」という生産現場でのアイデンティティが強くあるので、例えば公園を占拠すること自体に目的を見だしたりとかはあまりなかったんですよね。ただこれからスクウォットの運動というのは、自分たちが生活できる空間を賃労働関係なしに獲得する運動なので、たぶんまだ寄せ場の運動、これまでの日本の運動の中でも意識されたことがないので、ひょっとしたらまだなされていない運動のひとつとしてあり得るのかな、とは思うのですけれども。

――おそらく日本の国ってものすごく速いスピードで西洋近代化を推し進めたじゃないですか。それでいったん焼け野原になった後の共通目標って先進国のモデルに追いつくことでしたよね。ですからみんな復興を手掛けるのが当たり前の中で、そこで一番下層の、と言っては語弊がありますけど、日雇い労働のような基盤の仕事をしてきた人たち、建物の基礎的なものを手掛けてきた人が沢山いた。その人たちが職人的なプライドを持って結果的には不況で野宿生活者になったとしても労働者としての誇りは内面化していると。事実労働者として活躍していた時代もある。で、その次の世代。そうですね…。今の団塊ジュニアくらいから確かに労働形態も変わっているから。そういった人たちも失業後、家がない形でどうなるか?というのは本当にね。そういった文化的な蓄積もこれから……。

原口:これからですね。

――でね。ぼくは前からお話を聞いてきた人たちに英国ロックを聴いていたという話をよくしていて。イギリスの70年代後半の話で、初期的なスクウォッター人たちがいたと聞くわけですよね。つまり労働者階級の人たちです。で、労働者階級で展望がない若い人たちは生活要件を得るためにアートスクールみたいなところに籍を置いて家はスクウォットしてる、みたいな。まあ、初期的な反労働みたいな。その後そういう蓄積があったかどうかはしらないですけど(笑)。あったのかもしれないですけど、おそらく反労働の流れというのは特にヨーロッパの場合はオイルショック以降一挙にポストフォーディズム的な状況になっちゃったでしょうから、そこで何でしょう?あの時代は失業者になるか単純労働者になるしかないという絶望感がバンドをやるとかの活動、メッセージ性に反映したと思うんですけど。その先のブレア時代の郊外団地族の頃になると端から働けませんと。『チャヴ』という本がありましたけど。早い段階から子どもを産んだほうが国からお金も支給されるし。それは展望のない話かもしれないけど、「働かないで生きる」という世代の経験があるのかもしれない。それをどう考えたらいいのかというのは難しいですけど、それをポジティヴに受け止めるか、ネガティヴに受け止めるか。ぼくも評価できないんですが、どう思われますか?

原口:ぼくは『働かないで、たらふく食べたい』という栗原(康)さんの本は大好きなんです。

――そうですか(笑)。

原口:はい。でも、たぶん栗原くんの言う「働かないで」というのは賃労働のことですよね。

――そうですね。

原口:やっぱり賃労働からズラすところからやらざるを得ない。で、やっぱり釜ヶ崎が持つこれまで受け入れてきた経験の数の限界というのは、一番下層の労働者の中にさえ賃労働に依拠したプライドというものが深くくさびのように打ちこまれてきたところです。これがある種の限界としてあるんだろうと思うんです。例えば森元斎くんが言ってるような勝手に畑を作るというのは賃労働とは関係なしに人間の原体験に通じている、一般には「活動」呼ばれるような、そういったものを労働というように言っている。たぶん釜ヶ崎、寄せ場の労働者すらそこは「行動」として行きつけなかった。僕はこれからその意味での寄せ場の思想の「乗り越え」というのが必要だと思います。


              越冬闘争の現代的意義

原口:それは寄せ場の思想の中では過小評価されてきたんですけれども、実際にはやられていたと思っています。
 それは何かといえば、「越冬闘争」とか、「テント村」の闘争。これは失業したときにはじめて生み出される闘争としてあるんですよね。この闘争は現場闘争などとは違い、失業している状態の中でいかにみんなで冬の時代に、「冬の時代」というのは比喩ではなしに、本当に寒い中で正月を乗り越えて、焚火をやって、越冬パトロールをやって、お互いに春を迎えるというのが闘争となるわけですけれども、これを70年代からずっと現場闘争と同じくらいの歴史を持ってやってきた。そういう流れがあります。寄せ場の労働者の感覚からするとこの2つの闘争があるんですけど、現場闘争のほうがずっと労働者らしい闘争で、ほかは補完的な闘争だという風に思われてきたんです。ですが、おそらくこれからは逆転せざるを得ない。つまりもう賃労働に頼って抵抗を立ち上げるということはますます無理でしょう。今後は失業状態を前提とした、あるいは賃労働ではないことを前提とした、生存できる空間と関係性を作っていくような実践をどう構築していくか?ということがたぶんぼくがいちばん寄せ場の思想からくみ取りたい重要な思想の宝としてあるんですね。で、これは実は過去の思想など見ていくと、「現場の闘争」はすごく華々しいんです。華々しいので、書かれるテキストの文体、ビラの文体もものすごく熱量があるんです。それこそ「革命、近し」みたいな形で。ただもうひとつの越冬闘争とかの文体というのはものすごく暗いんですよ。
 例えば*船本州治は1970年代の初頭に寄せ場の思想を書き記した活動家ですけれども、彼は越冬闘争にも言葉を与えているわけですが、越冬闘争に関する言葉というのは、例えばこういうわけですね。「我々の未来は暗黒である」と。「我々の現在も暗黒であり、我々の未来もまた暗黒である」と。しかしそれでもなお生きていく、というような。これは「暗黒」という言葉を使ったうえでの闘争の呼びかけなんですけれども、これは画期的だったと僕は思ってます。ひとつには、当時はある種の前進的な展望がないと抵抗的な実践や主体を生み出すことはできない、というような前提があったように思うんです。この越冬闘争の話をしていてもそうですけれども、10年先の未来が一気に明るくなるような展望はなかなか持ち得ようがないときに革命的な言葉というのはあまりにも空々しく聞こえてしまうと。だけどもその越冬闘争の言葉なんかを見ると、ある種勇気づけられるところがある。いま現在の状況も未来も暗黒であるという、すごい叩きつけるような暗い文体なんですけれども、その中でも抵抗の実践は生み出すことは出来るということを示しているように思われて。そのあたりの主体のありようであるとか、抵抗のありようであるとかは、実は寄せ場の思想の中でもこれまであまり評価されてこなかった部分であるわけで。たぶんこれからの時代に必要になってくるのはむしろ越冬闘争のラインの系譜だと思いますね。対して現場闘争には終わりがあるんですよね。必ずある時期で勝利か敗北かが決まるという限定性があるわけです。

――現場闘争というのは、例えばどのようなものなのですか?

原口:例えば、「賃金を勝ち取れ」とかですね。

――なるほど。60年代であれば日雇い労働者の雇用保険とか。

原口:そうそう。雇用保険もそうですし。長短ありますけど、どこかで対決するべき会社なり企業を敗北/勝利の決着がつく瞬間があると思いますね。

――それこそ*釜共闘でやった*鈴木組との闘争ですか。

原口:そうですね。

――三角公園での夏祭り…。

原口:それもそうですね。

――やくざを排除する。

原口:やくざから三角公園を奪い取れるかどうか。ところが越冬闘争というのは…。

――前者は本当に「勝った」というのが分かりやすいですよね。

原口:わかりやすい。

――ええ。「やれるぞ」ということですね。

原口:それに対して「生存闘争」というのは終わりがないというか。ず~っと続く闘争ですね。

――年を越せるかどうか。「年越し派遣村」の話じゃないけど。年を越せるかどうかということを毎年毎年やらなければならない。

原口:そうなんです。

――炊き出しでやるわけですね?

原口:炊き出しもやりますね。

――横浜*寿町のドキュメンタリー映画とおんなじで、本当に大変だけど、自分たちで炊き出しをやる。寒い冬を。あれはオイルショックの大不況のときのものですね。

原口:だいたい「炊き出し」は大不況の真ん中で生まれた実践ですね。しかもそれがまだ現在まで続いているというのが重要なことですし。

――しかしそれは最終的に持久力が必要なことですね。何かちょっとアイデアが欲しいなと思っちゃうところですけどね(苦笑)。

原口:う~ん。そうなんです。アイデアが欲しいんですが。

――先ほどの船本さんという人は片側では華々しく活動しているじゃないですか?釜共闘で。

原口:そうそう。

――彼はもともと広島から、当時問題になった成田空港建設闘争…。

原口:三里塚ですね。

――三里塚闘争に参加して、そのあと山谷に行って。いわゆる当時の革命思考の学生運動家としてやってきて、釜ヶ崎で釜共闘というものを作ったわけですね。だから文章などを読むといかにも60年代の新左翼というのかしら?「帝国主義に対する闘いを」みたいな。すさまじく熱いというか。時代的には分からない人にはさっぱりわからない世界観で書かれてますけど、その人も同時に越冬闘争になるとまたその論理が。「勝ち取ったぞ」というのとは違う文脈の志向になってくるわけですね?

原口:2つのことがあると思います。たぶん船本はあの文体の状況の中で初めて越冬闘争に積極的な意義を見出した人間ですね。

――そうですか。

原口:やっぱり越冬闘争にしろ生存闘争にしろ、ずっとそれは運動とは違う、「施しだ」と思われていたのが大きいので、それに対して「いやいや」と。たとえば船本はこう断言するわけです、越冬闘争の意味というのは、単に力ある青年労働者だけではなしに、当時の言葉でいえば老人であるとか、病人であるとか、アル中であるとか、そういった人々を引き受けようとしたこと。彼らが闘えるような形で闘おうとしたこと。これが越冬闘争の意義なんだ、と。確かに文体は当時の文体ではあるんですけれども、ただ言っている内容というのは当時としては誰も言っていないような、つまり「賃労働を前提としない」構想の在り方を示したところがあると思うんですね。

――それがね。何でしょう?福祉の文脈ではないですよね。言葉は。

原口:福祉ではないですね。

――いまはいろんな形でNPOみたいなものが軸になって福祉的な、いや、福祉が前提でもないんだろうけど、福祉的な形で釜ヶ崎の日雇いの労働者の中で炊き出しも、あるいは野宿の人が生活保護を受けられるような活動という実践をやってますよね。そういう流れではないですよね。そういう民間の活動というのも70年代の初めころにはまだなかっただろうから。自分たちで手にしなくてはならないということを、例えば行政にお願いするということではなくて、自分たち自身で炊き出しをやって、自分たち自分で冬を越す。

原口:その福祉という言葉もたぶんどういう風に定義するかということがあると思うのですけれども。ただ広い意味だとある種の福祉を読み込むことも可能かもしれません。というのも、「越冬闘争」でやられることというのは例えばパトロールと呼ばれますけれども、野宿している労働者同士の声掛け、今でいう「夜回り」です。それから炊き出しにせよ、フードバンクにせよ、それから医療活動、それから見守り。それから食べるところ、寝るところ。それを獲得するということですから、自分たち自身の力で活動するということがあって、もう闘い方の違いはあると思うのですが、領域としてはもう完全に福祉です。福祉と呼ばれる領域に踏み込んでいると思いますね。このあたりのことは船本の面白いところであり、なおかつその部分が寄せ場の活動の思想の中で読み飛ばされてきたイズムではあると思うんですね。同時代的にはたぶん影響を受けてると思うんですけれども、*ブラック・パンサーの影響が大きいんですね。

――ああ、なるほど。

原口:ブラック・パンサーがやった例えば「給食活動」であるとか、「コミュニティ活動」であるとか、そういったものが実はダイレクトに寄せ場に影響を与えているんですね。そういったものと実は通じるものがある。クオリティ、裾野のようなものは確かにあったと思うんです。というのも、ブラックパンサーのメンバーたちは山谷から沖縄、それぞれ訪問しているので。

――ああ、そうなんですか?

原口:ええ。闘争の言葉としては、80年代以降とにかく建設労働者としての側面がどうしても前に出てきてしまうので。それほどその部分が深められたということではなかった。

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活動家が労働者の行為を反復する

*テント村―野宿者支援のテント村での活動のこと。大阪市長居公園、天王寺公園、大阪城公園などのテント村において集団で野宿する人たちがいたが、多くが行政代執行で排除された。最近では東京都渋谷区の宮下公園の命名権をナイキジャパンに売却し、同社がスケートボード場やカフェなどの有料施設を新設する計画が進行中と言われ、公園の野宿者排除、市民団体の集会での使用ができなくなる可能性が指摘されている

*船本州治―1945-1976.満州国に生まれ、広島大学理学部物理学科を除籍後、東京の山谷や大阪の釜ヶ崎で寄せ場解放闘争に身を投じる。1975年、沖縄で焼身自殺。享年29歳。遺稿集に『黙って野垂れ死ぬな』(株式会社 共和国)

*釜共闘―「暴力手配師追放釜ヶ崎共闘会議」の略。1972年に鈴木組闘争などを経て全港湾労働者西成分会の若手活動家と、新たに参与した学生運動家が合流して結成された。越冬闘争や釜ヶ崎夏祭りの主催などを行った。
*鈴木組闘争―鈴木組は暴力団組織が経営し、日雇い労働者を調達することをなりわいとする違法な手配師組織である。条件の違う求人に応募した何人かの労働者が現場から逃げたところ、そのうちの一人が鈴木組の事務所でリンチを受けた。また、次の日の朝に別の労働者も鈴木組に連れ込まれようとしたが、近くにいた二~三百人の労働者が押し寄せ、鈴木組の車を追い返した。その翌日十数人の組員が組長を筆頭に木刀を手にいっせいにリンチを批判する活動家に襲い掛かってきたが、取り巻く労働者たちが逆に組長を捕まえ、土下座をさせて労働者に謝罪をさせた。この成功をきっかけとして釜共闘が結成される。

*寿町のドキュメンタリー映画―『どっこい人間節―寿・自由労働者の街』(1975年)小川プロダクション制作。横浜のドヤ街寿町に1年近く泊まり込んで聞き撮りした労働者たちの姿を追ったドキュメンタリー映画。(スイス・ニヨン国際映画祭銀賞受賞作)

*ブラック・パンサーー1966年、カリフォルニア州オークランドにおいてヒューイ.P.ニュートンとボビー・シールにより、都市部の貧しい黒人が居住するゲットーを警察官から自衛するために結成された。共産主義と民族主義を標榜しており、革命による黒人解放を提唱し、アフリカ系アメリカ人に武装蜂起を呼び掛けた。また、貧困層の児童に対する無料の食事配給や、治療費が無料の「人民病院」の建設をおこなった。

            

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