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神田川と、ある中華そば店の話(その2)

店内に先客は1人しかいない。あらためて、子門真人に似た店主の風貌を見て吹き出しそうになった。この風貌でありながら、麺上げの手さばきが異様に繊細だったりするから余計に可笑しかった。
いま目の前のこの人が、

「むぁーいにち むぁーいにち ゔぉーくらーは鉄板ぬぉー」

などと歌いだしたら、僕は笑いながら倒れて気を失っていたかもしれない。

メニューには中華そばとつけ麺に各種トッピングがあったが、まずは基本からと、普通の中華そばを注文した。店主は特段大声を出すわけでもなく、かといって無愛想でもなく、「はい、中華そばねー」と言った。

彼のメガネの奥に見える目は人懐っこそうではあったが、やはりどこか職人気質を隠せない頑固そうな厳しさもあった。暖簾こそボロボロであったものの、この店は当時、創業して間もないころだった。それにもかかわらず店内には使い込まれた製麺機が鎮座している。この人はどうやら、この古くてボロボロの物件に移転してきた人なんだろう、きっと以前は別のところでラーメン屋をやっていたんだろう、と推測した。実は超一流の中華料理店で働いていた凄腕の料理人で、ラーメン屋をやってみたくてこの地を選んだ、ということはずいぶん後になってから知ったことだ。製麺機が古く見えたのは誰かから譲り受けたからか、あるいは膨大な数の麺の試作を繰り返したからなのだろう。では暖簾がボロボロなのはどうしてなんだろう。謎は残る。

出されたラーメンはスープの表面がラードの油膜で覆われており、レンゲですくっておそるおそる口に含むと、人生のすべての記憶が飛んでしまいそうなほど熱かった。しかしその先にあったのは強烈な旨味だった。それも人工的でない旨味だ。子どもの頃から馴染みのある鶏ガラ系の旨味のほかに、ほんのりとした豚骨系の香りや、煮干しなどの魚介系や何かの乾物の香りがする。当然ながら、香味野菜や他にも無数の食材が入っているのだろう。ただ、最近「意識高い系」の店でよく見かける「味が何層にも重なった複雑なおいしさ」というわけではない。すべての食材が仲良く肩を組んで鍋の中にいる、そんな感じだ。

そしてやや太めの自家製麺のもっちりした食感、つるっとした夢のような喉越し。茹で加減の好みはオーダーすれば応じてくれるようではあったが、この絶妙な茹で加減を味わわずして「麺硬め!」だなんて言ったら罰当たりこの上ないと思った。メンマも自家製とのことなので口に含むと、なるほど、あの業務用メンマに特有のにおいがしない。しみこんだ出汁の香りとほんのりとした甘みが愛おしい。チャーシューはホロホロではなく、適度に肉肉しさを残しながらもいつの間にか口の中でほぐれていく。そしてこれまたしっかりと出汁の香りがしみている。

なんだこの店は。

丼から顔を上げて店主を見ると、彼はなんとも拍子抜けするほどキョトンとした顔でこっちを眺めていた。目が合うと、彼は急にメガネの奥の目をかすかにほころばせて、「おいしい?」と言うので、僕は思わず「おいしい」と答えた。髪を切った子門真人が「おいしい?」なんて聞いてくるものだから、僕はなんだか子どものころに戻った気持ちになっていた。だから近所のおっちゃんと話す感覚で、敬語の「です」をつけ忘れてしまったのだ。店主はちいさな声で「よかった」と言った。うつむき加減であったし、これといった特徴のない声質ではあったが、それでも誇らしげな笑みがちらりと見えた。

その日から僕は、隔週で高田馬場に行くたびにこの店に吸い寄せられた。身体が勝手に動くのだ。足が勝手に向かうのだ。

(続く)

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