壊すべき未来を許す
身近にあるものを当たり前と思うのは、
それこそ人間にとって当たり前の心情である。
しかしながら、これに固執することは非常にもったいないことだ。
固定概念とは非常に厄介なもので、人間の視野をひどく狭くする。
視野が狭いとは、限られた考えと知識でしか、物事を図ることも、意見を延べることもできない。目の前のモノを一点に偏った世界で見ている。
それはつまり、個人の当たり前の価値観でしか生きていけないのだ。
繰り返すがこれは、至極当たり前の心情だ。
フィルターバブルに包まれた環境は肯定感や安心感がある。言い直せば「個人」を守るために視野が狭くなるともいえる。自身を守るのは、人間の当たり前の心情だ。
けれどもこの世にある便利なものは、すべて当たり前を壊した「固定概念」の外でつくられたものであると、知っているだろうか。
林檎が上から下に落ちる現象は当たり前のことだ。
しかしそれをニュートンは不思議に思った。
周りは彼を馬鹿にした。
それでも彼は考えた。
その果てに万有引力の法則を見つけたのだ。
あなたは固定概念の殻を破けるか。
破いた先に何があると思えるか。
新しいことを、未知を、信じられるか。
私の絵は有名な画家のような技術はないし、有名な漫画家のように若者受けするようなものでもない。
価値とは、他者が与えて成り立つものだった。
自分の意思でつくれるものではなかった。
故に、私の描く姿は他者から見ると自己満足にしか映らない。
評価されない絵を、それでも見て欲しくて描くというそれは、固定概念を壊すこととよく似ている。
自分の意思を貫くことでしか評価はされない。それこそ地道で惨めな時間だ。
「壊す」とは言い換えれば「生む」である。
自我を開き、認知してもらうことである。
そこでだ。
ひとつアートに触れると自分の価値観に亀裂が入り、視野が開けていく。
価値観の亀裂は「懺悔」と「他者の意思」から取り入れるものが大多数だ。
アートは正に「他者の意思の塊」だ。他者の意思、価値、思考が、創造によって可視化された産物である。
私の絵や物語もその一部であるし、私が純文学好きなのも最も創造性の高い小説だと感じるからである、あれは意思の塊だ。
世界ではバンクシーを始めとしたアートを嗜む文化がある。
スイスはその中でも活発であり「自由な表現」を美しいと思う心がある。「アート・バーゼル」が盛んなのは、その証拠の一つだろう。
日本はといえば伝統に固執しているところがあり、当たり前の崩壊を拒む傾向がある。
しかしこれもひとつの国民性であり、大切にすべき価値観の一部だ。
それでも思うことは、この思考によりすぎては、新しいものを産む「自由」は失われるという危惧感だ。
ならば日本は新しいものを本当に産んでいないのだろうか。
それもまた違う。
日本が生む新しいものとは、元あるものの価値を増幅し、培われた繊細な技術で創り出す「自由な工夫」だ。
浴衣や建造物などが評価されるのは例の一部だろう。
これらは一見真逆の性質に思うが、壊して創造して、創造から道を増やすという点は非常によく似ている。
双方の掛け算により更に美しい、新たなものを産んでいく。
最近は世間の目が厳しくなり、物語も絵も自由な表現そのものが規制される傾向にある。図書館戦争が現実になる日がくるのか。
自分の中には葛藤もあるし、訴えたい考えも多数ある。
異なる価値観の共生、発達障害者が生きやすい未来づくり、戦争のない世界、政治の討論が自由な世界、規律ばかりで塗り固めない世界。
理想論だろう。
だけれども叶えたい、壊して、築きたい未来。
これを邪魔しているのは、どれも古来から流れる固定概念。
以前、戦争をテーマとしたアート展が不謹慎という理由で中止となることがあった。向きあうべき課題、尊重されるのは受け継がれる意思だけなのか。
これら固定概念を壊して、創造するべきは、やはり個人の意思と、他者の意思を同時に尊重する「価値の自由」である。
冒頭にもどすと、固定概念は当たり前の心情である。けれども、新たな価値を認める世になるためには、固定概念は捨てなくてはならない。
これを解決する策に具体性を持たせるとしたら、可能とする手段は「テクノロジー」である。
「テクノロジー」の大きなところに「未知」がある。
「未知」は「価値」をつくる。これにかけることにした。
どうなっていくのか、まるで分からないが、大きな事例として、何年経っても進まなかったオンラインの実用が、コロナウイルスの影響で一気に進んだ。その中で「遠くにいても気軽に会える価値」を産んだ。
医療の世界でも、テクノロジーの力で病気の精細な分析が可能になり、完治可能な技術も発達するだろう。
アルゴリズムの力で、人の思考回路や心情を読み取るようになり、広告の戦略も実に変わった。
情報はテレビの箱から小さな盤面に変わり、ワイヤレスが主流になった。
価値の変化は起きている。
これにいかに便乗し、新しい技術を開発するかが課題だ。
これが現実になったところで、新たな問題はあるだろう。
けれどもそれでいいのだ。
問題は新たな思考と技術を産む。
そして「自由」は「解決の促進」を育んでくれる。
様々な考えが許容され、喜怒哀楽が許される。
自分の新しい生き方を提案し続けられるのだ。
この記事が「創造・具体・現実」に沿った「壊して生む」ことの解答になっているか——。
自分はそのためにテクノロジーを学ぶし、クリエイティブな活動を通して意思を訴えていきたい。
「当たり前は当たり前に非ず」
自分の原点にある考えは、これからも変わらない。
貫く私である。