世一杏奈(よいち・あんな)
日々の情動やイラストを 毎日投稿しています。
マイワールドからお届けする、自身の思考をアウトプットする広場である。 主にアートシンキングという概念に基づき、自身の思考変動を記す。
これは技術/知識ゼロの人間が、ITの学校に入り、超絶カッコイイエンジニアになるまでを記したものです。 記録実験TECHシリーズは、事実を基にした内容と、勉強をサボりがちな自分への戒めと、皆様のドラえもんのようなあたたかい目で構成されています。 《ヘッダー画像はkyokoさんの素敵なイラストをお借りしています。ありがとうございます。》
記事の息抜き日にお話とか書いたものを集めました。
エッセイ。 自分がなぜ執筆を始めたのか、それからなぜ作家の夢からITエンジニアの道に行くことを決めたのか。 今に至るまでの話を、いくつかの章に分けて話していきたいと考えます。これが何かの繋がりになればと祈りながら。
個人的趣味で、スキして頂いた方へのお礼メッセージを各国のありがとうにしているのですが、知らない方からしてみれば「なんのこっちゃ」の話なので、訳語の一覧を投稿します。 知らない言語が出てきても驚かないで下さい。全て意味はありがとうです。 ・ありがとうございます!! (アリガトウ) [arigato] 日本語 / 日本 ・Thank You!! (サンキュー) 英語 / アメリカやイギリスなどの英語圏 ・谢谢!! (シエシェ) [xièxie] 中国語 / 中国 ・唔該!
note また書き忘れました……。 不覚です。 一からやり直します!学校卒業するまでに365日バッチ取得を目指して! 作戦練り直しますので、少しの間 note お休みさせて頂きます。新生の私を楽しみにお待ち下さい(笑) Twitter の活動は続けますので宜しくお願い致します。
自分はまだまだだと思った。自己肯定感と同時に、やはり自己否定感も持っていなければ、簡単に有頂天になってしまう。理想としては 100 : 100 の割合で、感情を分離して、視野を広く持ち続けることが必要だと考える。主観的な心は自分が自分でしかなくなる。地道に地固めしていくしかない。
夏といえば、 海に花火にバーベキュー。 祭りや太鼓に獅子の舞。 美味しい野菜と麦茶と風鈴。 そしてスイカ。 入道雲。 フェスに旅行に大盛りあがり。 けれども今年は少しちがう。 ぜんぶぜんぶ楽しめない。 新しい夏がやってくる。 どんな形になるかな。 ちょっとワクワクしませんか?
来週が学校最後の週だ。 春の前半はオンライン。 夏の後半はオフライン。 とても良い体験だったと思う。毎日通うのが辛い子にとっては、自分を労わりながら勉学に励むことができ、息のしやすい未来へと進んだ気がする。 なんだか物足りない気もするけれど、夏休みも充実しているといいな、楽しみ。
私の大切な人が今日、20歳になった。 自分が20歳になった時も不思議な感覚だった。出来ないことが出来るようになって (法律的に)、代わりに責任全てを自分で背負う齢。社会から大人とみられる齢。 けれども周りがその一歩を踏んだと思うとまた違う気持ちになる。 ともあれ20歳おめでとう。
最近はよくお腹が空くし、脳はすぐ疲れるし、眠くなるし、体はヘトヘト。 それは自分が何かして消費しているから「休みなよー」と自分が自分に言っている証拠。 何もないより幸せだと思う。 何かをしないと頭は元気だしお腹も空かない。体は元気な方がいいなと思いつつ、噛み締めて感謝していたい。
疲れたときは一杯の珈琲 疲れたときは好きなゲーム 疲れたときは猫を撫でる 疲れたときは美味しいものを食べる 疲れたときは一人でホッと空を見る それでも結局 考えに耽って休めないのだけど こんな時間を過ごせて 自分が今居て 明日があると思える それに幸せを感じると 笑える気がする
自分の地元には「ネズコ」という大きな木があり、小学5年生になると森林学習で一度は訪れる。今もあるだろうか。 私のクラスは16人いたのだが、16人の小学生が幹周りを両手一杯広げて、漸く囲める。それくらい太くて大きな幹。 とても感動したが、道中の森の中も好きだった。自然って不思議だ。
辛いこと、苦しいこと、泣きたいこと、一人一人、沢山ある。誰にも見せられない自分の弱くて柔らかい部分。 それで良いんだ。少し自分に優しくて、肯定して、大丈夫と言ってあげる。努力を誰かは見ているし、それが誰かの勇気になっているし、数年後に自分に還ってくるものだもの、おつかれさまです。
身近にあるものを当たり前と思うのは、 それこそ人間にとって当たり前の心情である。 しかしながら、これに固執することは非常にもったいないことだ。 固定概念とは非常に厄介なもので、人間の視野をひどく狭くする。 視野が狭いとは、限られた考えと知識でしか、物事を図ることも、意見を延べることもできない。目の前のモノを一点に偏った世界で見ている。 それはつまり、個人の当たり前の価値観でしか生きていけないのだ。 繰り返すがこれは、至極当たり前の心情だ。 フィルターバブルに包まれた環
スタジオジブリ名作「もののけ姫」。 小学校の時に見てトラウマになった感覚が強かったが、大人になると作品の中核が見えて "生きる" ことに対して考えさせられた。戦争と自然と共存、各々に信念がある。闘いと生存の問いは難しい。異との共生の未来は闘うことでしか生まれないのか、だから問う。
ふと物語が書きたくなった。 話、とは人に伝える為に書くものであり、自我と他者との葛藤で新しいものが生まれるらしい。 確かにそうなのだろう。 それでも伝える為の話とはどうも苦手だ。自我との葛藤と声、その訴えと姿を文字にする。その中で見える知らない世界を描く。 価値の相違とは難しい。
自分はかなりの利他主義である。 自分以外の誰かが幸せであり、笑っているのならそれでいい、そう思ってしまう。 基本的に自分だけが得している状況を好かないので、その方が嬉しい。 けれども自分を殺し続けることは、果たして良いことであるのか、時折考える。我儘や頼ることは未だ苦手なのだ。
今日は「風の谷のナウシカ」を見てきた。大人になると、深い世界の問題が心に染みて、見方がまた変わる。 ナウシカは憧れる女性像だ。優しく、強く、美しい。
今日は久しぶりに妹と会ってくる。 側から見ると、仲の良い姉妹に見えるそうだが、実際はそうでもない。 彼女はかなりのツンデレで、塩対応がたまに傷、根は優しいはずなのだけれど。 そこで、この間柄に名前をつけるならライバルなのだと思う。お互い負けず嫌い。見えないところで高め合っている。