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義務教育で習ったことは対して使えない。当たり前を疑わなきゃいけない理由

日本には義務教育というすばらしい制度があり、その制度のおかげで社会に出たときに最低限、生きていけるだけのコミュニケーションやルールを身につけることができる。その教育の時間を9年間と定め、社会の基礎中の基礎を学ぶことができる。
だからこそ、社会に出て働くことができるし社会的に他人と生きていくことができる。

にも拘わらず、なんで学校で習ったことのほとんどは世の中で使わないのだろうか?使うきっかけが限りなく少ないにも関わらず習わなければならないのか?
様々なコトを広く浅く教えることで選択肢を拡げて興味を持った分野に進むことができるからなのだろうか!?それとも別の理由があるのだろうか?
今回は教育についてではないので深掘りするつもりはないので次の機会にでもまとめようかな・・・。
でもほとんどの教科は社会に出て使えないし、使う機会がない。そんな疑問を持つ教科に対しても意味はある・・・と信じているw

しかし日本で生きていくために必要な国語・言葉ですら使えないモノを学ぶことがある。その中でも社会に出て一番違和感を持っていたことが「対義語」である。
対義語を信用した結果、ことごとく使えなかったし、ズレたw
なぜ使えないのだろうか?

まずほとんどの人は義務教育中当たり前のように習ったことを疑いもしない。それは国が経営している制度なのだからウソなど教えないと思い込んでいるし、事実ウソは教えていないから当然のことのように信じると思う。
それは世の中に対しての常識であるかのように学んできただろうし、疑うことなく、その言葉を基準に考えたり、発言や行動をしてきたと思う。
しかし私たちが学んできた「対義語」が社会において間違っていることがることに気が付いてしまった。
これはほとんどの人が感じていることではないだろうか?

対義語の意味を調べてみると・・・
「意味 が反対となる 語 や意味が対照的になっている語」
この「反対」という言葉が自体が意味としての反対であり、あたかもそれが真実だと勘違いしている人が多いように感じる。
それはリアルにおいて先入観でしかない。
例えば「上下」「左右」「前後」「行く行かない」のように物理的な対義語であればそのままの意味で受け取っていい。しかしそれ以外のことに対してもごちゃごちゃに考えてはいけない。

ほとんどの人が勘違いしている対義語とは・・・
「成功の反対は失敗」
「好きの反対は嫌い」
「楽しいの反対はつまらない」
「幸せの反対は不幸」
ホントにそうだろうか?人生経験が豊かな人ほど、この対義語が現実では対義になっていないことは理解していると思うし、対義だと信じて生きているうちはかなり人生を浪費しているように感じる。

この言葉を信じたとしてもうまくいかないし、好転することはない。

一つずつ簡単に説明すると・・・
成功の反対側に失敗はないことに気づいているか、失敗を恐れて行動できない人ってかなり多い。そして同時に一度の行動・チャレンジで成功できると勘違いしている人もかなり多い。それは日本の教育をはじめとするほとんどが原点方式であり、多くの成功よりも一度の失敗に注目して笑う世の中だ。

有名な話がアインシュタインの9の段の掛け算の授業。気になる方は検索してみるとすぐに出てくると思う。
それは人間の本能からきている反応なので仕方ないのかもしれないが個人的にはかなり寂しいことだと考えている。

本能という点でも少し補足してみると、『人間は社会性の生き物である』
この言葉は哲学者アリストテレスの言葉であり、社会の中で生きていくことが自分の生存率をあげること、そしてその社会の中でターゲットを決めることで自分に注目をさせないこと、そして自分よりも劣っている生物(人間)をつくることによって自分の生存率を高めることができる。
かなり省略した説明だけどニュアンスだけくみ取ってくればいい。

特に日本人は社会的生き物であるという本能をDNAの中に濃く持っているのかもしれない。
日本人については別の機会にでもボロクソ書くつもりw

でも本来であれば、成功するためには今ある選択肢を潰しながら前に進むしかないし、その選択肢を潰すという行動自体が失敗と言われるが、それは成功に近づくためのプロセスでしかないことを理解してほしい。

成功の一部に失敗がある。じゃあ成功の反対とは何か?
それは成功に近づいていないことであり、成功近付くための行動(世の中で言う失敗)をすることでしか成功に近づくことはできない。
「成功の反対は行動しない」これが現実における対義の言葉になる。
この事実を知らない人はきっと成功に近づくための行動をしていないケースが多いし、きっと意味だけの高みの見物をしているだけなのだろう。
そんなやつの言葉に耳を傾けている時間はあるか?

少し話を脱線させちゃうけど、言葉を聞くときの注意点があり、その言葉を発している人は自分が向かいたい方向や進みたい先にいる人なのだろうか?
まさか経験もしたことがなく、ただ年上だったり、自分よりも世の中で認知されているからと言ってその人の言葉を鵜呑みにしていないか?
もししていたらかなりヤバい。

それは学校の先生しかやっていない人に将来の相談をするくらい危険なことだし、会社員しかやったことない親に経営者になりたいって相談しているようなものである。
ただ勘違いしてはいけないことは、その相手が悪気が無いという点だ。
悪気があればまだいいが、本気で話してくれている言葉だから厄介である。
このズレは経験しているかの違いであり、視野が狭いことが原因だと考えている。
更に脱線するけど、最も危険なことはその相手はあなたの未来をどこまで考えているのかということであり、極端な話、今しか見ていない馴れ合いの言葉なのか、将来や未来を見据えた言葉なのかが重要になる。

アドバイスについても別の機会にでもお伝えしようと思う。

そして今しか見ていない言葉というのは麻薬と同じように依存性が高く、吸引力がかなり高い。目の前の快楽を求めている。
この事実はかなり重要になるし、一度ハマってしまったら依存症になりかねないところが怖いところである。

そして話を戻して注意すべき点を伝えると「失敗で終わりにすることも失敗となってしまう」可能性が高い。
大切なことはその失敗をしたことによって何を得ることができるかであり、その得た経験を次に使うことが重要になる。
次に使えない失敗も本当の失敗となってしまうかもしれない。

失敗なんて成功の一部であり、誰にも気づいてもらえていないから失敗する訳でなにも恐れることはない。
だって1年前の他人の失敗なんて誰も覚えていないでしょ!?

一つ目から長い説明になってしまったので、反省して短めにw

好きの反対側に嫌いはない。
この説明をする時に重要になってくるポイントとして、「好き」と「嫌い」という状況を明確に分ける必要があるように感じる。
この考えはかなりサイコパスっぽいかもしれないけど勘弁してほしい。

好きな人に対して自分がやる行動と嫌いな人に対して自分がやる行動を考えた時に自分の感情は真逆に部分にあることは、サイコパスでも理解している。
ちなみにサイコパスとは「反社会性」と呼ばれるが別に快楽主義者でもなければ殺人欲求があるわけでもない。
私の解釈では自分が決めた目標などの優先順位が一番であることに対してそれ以外を犠牲にして最短で進むことができる「超合理主義者」がサイコパスなのだと考えている。

この優先順位が一番であることを決めるときには感情があり、その一番が変わらない限り、同じような行動と選択をする。しかし一番が変わった瞬間にそれ以外のモノに愛着も責任も感情もなくなることがあるだけなのだと考えている。

その上で好きな人に対しても、嫌いな人に対してもやることは変わらなくて、相手のことを考え、相手に対して何ができるかを考え、相手に対して行動する。
要は相手のことに対して時間を費やすということ自体は何も変わらない。その結果、相手が喜ぶのか嫌がるのかの違いかもしれないが喜ぶもの嫌がるのも相手次第であり、ここに自分の強制力は発生しない。

そして唯一違うその感情が真逆にあるっていうことをどう説明できるのだろうか?
はたから見た時に明確な違いを説明できる人はいない。唯一説明できるとするならば自分が発した言葉であるが、その言葉が噓か真かを判断することはできるのだろうか?

もちろん、私は脳に精通する知識を持っていないので好きと嫌いにおいて脳内や体内における「発生物質」が違うと言われてしまったらそれまでかもしれないが、それは言わない約束で頼むねw

好きの一部に嫌いがある。昔の言葉でもあるように「嫌よ嫌よも好きのうち」なんて話をしたら、それはまた違う意味なんて言われそうだけど、好きと嫌いには明確な違いなんてないのかもしれない。

「好きの反対は無関心」

例えば、たまにクレーマーとかで何十分も怒っている人がいると思うけど、実は感謝したほうがいいかもしれない。
だってその怒った人とは金輪際付き合うこともなければ接することもない。
そんな相手に対して自分の有限である大切な時間を費やしてくれている。
こんなありがたいことはないと考えたほうがいいと思う。

好きの反対は相手に対してどれだけ時間を使わないことか、道端の石ころのように存在すら意識しないことが本当の意味での好きの対義語だ。

そして楽しいの反対側につまらないはない。
幸せの反対側に不幸はない。

これは前に説明した2つの内容とは少し異なるかもしれないがこの2つの言葉には共通点があり、「楽しいとつまらない」「幸せと不幸」の2つの言葉は反対にありそうで、反対にあると同時にお互いの言葉の状況がお互いの言葉に対してシナジーをつくっている。
お互いの言葉はなくてはならない関係にあるような気がする。

どういうことかというと、つまらないという感情が楽しいという感情を増幅させるし、不幸という状況が幸せな更を増やす効果がある。
この2つの対義語は2つでセットになることによってその「差」が更にお互いの感情や状況を増やす関係にある。
つまらないという感情があるからより楽しく感じるし不幸があるからより幸せに感じる。

そう考えると「楽しいの反対は無感情」になるし、「幸せの反対は退屈」なのかもしれない。

何の感情もない状況や満たされていることに慣れている状況が楽しさや幸せという状況を減少させているし「差」を拡げないような役割になっているのかもしれない。

そう考えると現代は満たされた時代であり、溢れている時代である。そんな時代に生まれてきた子たちを「乾かない世代」ともいうらしく、与えられることが当たり前であり、あることが当たり前の世の中で育った人たちに「欲」や「やる気」「根性」とかいったところでピントがずれているのかもしれない。

《対義語の解釈=意味+事実》

少し話はズレるが例えば「好きじゃない」や「好みじゃない」という言葉だが「好きじゃない=嫌い」と捉えてしまう人が多いが違う。また「やらない=やりたくない」も似たようなもんで、好きじゃないとは単純に苦手や不得意なだけなのかもしれないし、やらないことはやりたくないわけではなくてできないだけかもしれない。

「〇〇じゃない」ことは必ずしも逆ではないことを理解したほうがいい。

学生時代に習った対義語のイメージがあまりにも強いと感じている。それだけ言葉や文字には力があり、義務教育で習うことってちょっとやそっとの考えや思いでは変えられないのだと思う。
そして言葉とは分かりやすすぎるがゆえに伝わりにくいということが多い。

正直、今世の中で今のところうまくいっている人の比率が多いのは二種類で学生時代学んだことが、社会に対してそのままではないと気づく人か私のように勉強をしていなかった人種だと考えている。
私は心から勉強しなくてよかったと思っている。

ここで私が何を伝えたいかというと冒頭でも説明したと思うが「言葉の反対側にある言葉」と「行動の反対側にある行動」はまったく別のものだということ。本当に世の中にある対義語は世の中に当てはまっていて当たり前のように学んできただろうし、それが間違えだとも思わずに発言や行動をしてきたと思う。
そして学生時代はそれを肯定しかされてこなかった。時代がそうだった。


最後まで読んでいただいてありがとーござい「まつ」。

いかがだったでしょうか?

この投稿は私の人生で感じていた違和感を言語化、方程式にしたものです。

この考えが全てではなく、目に触れたみんなの考え方の一つとなることが一番嬉しいと考えてます!

そしてコメント欄はディスカッションの場所として考えており、こんなことも考えらるんじゃないか?それは違うよね!など思ったことや感じたことを投稿して頂けるとありがたいです。みんなが自分らしく生きていけるように!私の経験が少しでもみんなのプラスになれば!!そして同じところに違和感を持った人たちで意見交換しても楽しいかなって思って。

今後も一つのテーマを決めて発信していきますので1mmでも興味がある人は「スキ」「フォロー」「コメント」をお願いします。

でわでわ!まつでした。またね。

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