独身男性は不幸と思っている独身男性の不幸。Pt. 1
先日、散歩してカフェに寄って帰ってきた。
ただ歩いているだけなのに、嬉しくて充実感がある。
これは家でただ座っていても感じることではあるけれど、散歩は散歩でそれなりの嬉しさと充実感がある。
同世代の知人に先日散歩をしてカフェに入ったら、様々な人を観察できて嬉しくて、楽しかったという話をした。こちらはしているつもりだった。
でも、あることを話しているときに彼は以下のことを言った。
私「カフェに入って、真剣な面持ちのPCを眺めるスーツの男性、70代くらいの賑やかな女性のグループとか。あとは、子連れの母親の子供に対する態度を見るのもなかなか面白かったなぁ。」
彼「わかる。やっぱり子連れ見ると心にくるよね。キツいわ。焦りも出てくるし。いろいろ恋人とか奥さんとかとしたい。婚活もさ、(以下略)」
なにが「わかる。」なのだろう。
こちらは、様々な人がいてそれを見ていて楽しくて嬉しい話をしていた。
話が食い違ってしまった。
それにしても、彼も大変だなと感じた。
私の世代の知人(男女どちらも)は全体的に多かれ少なかれ最近こうだ。
今回の話の知人は男性(シス男性ヘテロセク)なので「独身男性」の話に絞る。
彼らと話していると、驚きの思考の展開を見せることが多々ある。上記の話はほんの一例だ。
散歩も、カフェにいる時も、働いている時も、SNSを眺めている時も、常に「独身」の概念が彼らにのしかかっているようだ。
「一人で散歩してカフェに行く」行為自体が、彼らにとっては悲壮感に包まれたものになる。
街を歩いていて、天気が良く気持ちよくて、体も良好で、帰って住む家も食べ物もある。カフェに寄る金銭的・時間的余裕もある。
でも、「独身」という概念のせいで、どうしても「幸せ」にはなれない。悲壮感が漂う。
でも、同じ行為を「結婚」記号を「所有」しているときにするなら話は別だ。
街を歩いていて、天気が良く気持ちよくて、体も良好で、帰って住む家も食べ物もある。カフェによる金銭的・時間的余裕もある。そして「結婚」している。途端に、充実するし幸せに感じるだろうと彼らは信じている。
「結婚」記号を所有した際に、実際に彼らがそう感じるかはわからない。
「結婚」記号を持たない今の状態で考えている、「結婚したらこうなるだろう」の幻想だから。
先ほどの知人には「いやいや、充実感があって散歩できて嬉しいって話をしたかった」という旨のことを話した。
知人「まあ、それは〇〇(私のあだ名)から感じる。本当、最近彼女もいないのに楽しそうでいいよなぁ。」
私「彼女がいなきゃ楽しくなちっちゃいけないって決まりはないでしょ笑」
彼「そうだけどさぁ。」
そうと頭ではわかっていても、身体がわかっていないってことなのだと思う。
概念を頭でこねくり回すのも楽しいけれど、「身体」の深さを楽しむのも、また別の良さがある。
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