【平日の夜、高円寺高架下は誰かのリビングだった】
夜8時頃、古着屋「はやとちり」の前で緑茶酎ハイを片手におっさん立ち飲みをしている山下陽光氏を発見(そして、前tetraに来てくれたという上田さん)。五号店の松本哉氏の仕事終わりを待って「唐変木」にて飲み始める(この店、70年代のオープンからほとんど内装変わってない)。
その後、森元斎氏が合流。ひたすら長崎(の魚以外)について批判し「上京した暁には暴走族を結成したい」と語る。山下氏はタンザニアの路上商人の商売術(小川さやかさんの本)からホリエモン論まで。松本氏はアジア地下交流網拡大の使命を果たすためにお隣の国に潜入するも、国家権力の猛追を間一髪で逃れてきた実録潜入ルポ。全てベクトルが違うが、唐変木のザ・70Sの地下空間は優しく受け止めてくれる。(後で、残党ラジオ/独立したてキュレーターの池田さんや森美の飯岡さんも)。
唐変木を出て、次にどこに行こうかという話に。北口広場かどこかの店か。山下氏、「いや〜、もういい年になったら誰も路上で飲まないでしょ」といいながら、おもむろにコンビニに入り大量のビールを買い込む。いや、こんなに飲まないんじゃないの、と思っていたが、後にこの大量の酒の意味を知ることに。結局、急なゲリラ豪雨のために慌ててパル商店街前のJR高架下へ。再開発後のケンタッキーの前に車座になり、酒盛りを開始。他にも北口広場や外で呑んでた人々が雨宿りがてら高架下に溜まっていた。
飲み続けていると帰りがけの高円寺界隈のみなさんがひとり、ふたりと通りがかる。山下氏、すかさず「どうぞ!」先程の大量の酒を差し出す。ひとりふたりと酒の輪に加わっていく。次第に酒の輪が大きくなり、夜の高架下は誰かの家のリビングみたいな様相に。
それもそのはず、考えてみたこの高架下は高円寺時代の山下氏が何も売らずただ人が集まるだけ、というコンセプトの店「場ショップ」をはじめた場所。禁止ばかりの日本の路上に「集まること、居座ること」の身振りをデモとは異なる日常の水準で呼び戻していた高円寺時代の彼のホームのような場所だったのだ。
集まるのはなにも知人や友人だけでない。森氏が珍しい楽器を抱えたおじさんたちに声をかけると、どうやらイラン系クルドの方らしい。クルドのロジャヴァを調べている森氏、おじさんたちに抱きつく。で、彼らの抱えている楽器を見せてもらう。サントゥールというイランの弦楽器らしく、試しに演奏させてもらう。
で、やたらめったら叩いても、すごく優しく深い音色が出る。楽しい。クルドのおじさんも褒めてくれて、なんか弾けている気分になる(まあ弾けてないが)。これまで音楽のセンスないから、楽器は一生縁がないと思ったけど、初めて習ったみたいと思った(しかし、どこで学べるんだろうか…)
いくつになっても路上にむやみに集まって、居座ると、このような想像もしなかった出会いや出来事に遭遇する。あとは、路上に留まるための最初のきっかけ(この場合は大量に事前購入した酒)を準備しておくこと。ハコのなかに小さく収まっている限り、私たちは路上がもたらす偶然の出会いの機会を失い続けている。
ただし、これは単に外で呑んで騒げばいいということではない。高円寺北口はこれまでも広場で外飲みの場所だったが、コロナ禍では外で飲むことだけを目的の人々が高円寺の外から集まり治安が悪くなったという(松本氏談)。
おそらく、「自分の住む街の路上で集まる」というのがここでの鍵なんだろう。明日もこの場所に来て集まるためには、やりたい放題ではダメで、この場所の一角を一時的に占めつつも、全てを占有しない最低限のコード(他のグループとの距離や声の大きさ、呑んだ後の片付け、とか)を理解し、振る舞う必要がある。
たびたび話題になった歌舞伎町のトー横はどうなんだろうか、とか気になりつつ深夜2時頃まで路上の集いは続いていた。
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