ねじ曲がり現象、それは自分の都合の良いところだけ権利を求めているから
自由と平等と博愛。
生きる権利、人権はとても大切。
肌の色による差別は許さない。
性別による差別はありえない。
奴隷や強制労働はもってのほか。
動物にも権利を、植物を大切に。
世界に平和を、地球に愛を。
多くの人が望んでいるものがある。
それが達成されるならば、もっと世の中は良くなるはず。
それにもかかわらず、色々とややこしい状態が続いている。
人権主張者ほど非人権的なことに躍起になっている。
戦争反対を求める人ほど、暴力装置を使ってしまう。
それはなぜなのか。
それは、各個人が都合の良いところだけ権利を求めるから。
本当に達成したいのは、全員の幸福ではない。
自分にとっての都合の良い解釈による最適化。
ある部分には権利を求めて、ある部分は制限を求める。
その結果、その権利が二重の基準になったりするのは当たり前。
解釈で押し通し、権利をどこまでも振い続ける。
少数派・弱者という権利をするに強権的に振るう。
科学的に正しいとされないことに対しては、人の迷惑など知ったこっちゃない。
切り取りを全てと思い込むことで、都合よくしてしまう。
自分の都合の中の合理性を正義として進む。
もしかしたらこれこそが今の世の中で物事が歪んでいる本質かもしれない。
本当の意味で平等にしたらどうなるのか。
工事現場や鉱山の肉体過酷労働についても、平等だからの名の下に女性に当たり前に強制することができてしまう。
生きるために多くの食事を必要とする人も、平等として同じだけの食事量しか許されない。
平等にするために下駄を履かせるが無くなり、力無い者は永遠に弱いまま。
本当の意味での自由にしたらどうなるのか。
それは全ての行為が許される状態。
人を傷つけたり、迷惑をかけることも、法を犯すことも、制限することが許されなくなる。
秩序からの解放は、やったもん勝ちの弱肉強食の世界になる。
このように様々なややこしい事が生まれることから、様々なことに制限が加えられることはありと言えばありかもしれない。
とはいえ、それが個人の中で行き過ぎることが、物事をおかしくする。
うまくバランスの取れた中庸という状態に落ち着くことは、ありうるのだろうか。
全体最適で犠牲になる個人の権利。
個別最適で犠牲になる全体の権利。
昔は全体最適が優先だったところが、今では個人最適が優先される。
どちらの世界も、行き過ぎたものによって悲劇が生まれる。
その間のちょうど良いところにいかに落ち着く事ができるか。
エネルギー的に、中央が最も低いところとなるU字型のグラフ。
そこであったとしても、衝突はゼロにはならない。
それを受け入れた上で、個人も全体も行き過ぎを抑える。
今の世の中において平衡状態になるところ、果たして何処なのだろうか。
ありがとうございました。