自身の「無知」を認められる強さについて
「知らない」ということについて、考えてみる。
それは「無知であること」について、どのように感じるのかという事に他ならない。
無知であるということについて、どのような印象を与える可能性があるか。
知らないということは、恥ずかしいこと。
知らないということは、馬鹿にされる可能性があるということ。
知らないということは、使えない人だと思われること。
知らないということは、間違える可能性があるということ。
知らないということは、驚かせることにもなる。
いずれも知らないということによるデメリットが感じられる。
これが恐怖として機能している限り、知らないということはなかなか認めやすいものではない。
だからこそ、知らないことをいかに隠して知っているかのようにすることを多くの人はやってしまいがち。
それっぽいことを言っていれば、知っていると思われるというなんとなくな願望。
知らないという一言が全てをぶち壊しにすることだってある。
時に嫌な相手からマウントを取られるかもしれない。
このように、一般的には知らないことに対してマイナス面があまりにも強調されている。
とはいえ、知らないということは本当にネガティブなことなのか。
実際の世界においては、知らないことは沢山ある。
そもそも知っていることの方が少ないのが普通。
だからこそ、知らないことそのものは全く悪いことでも何でもない。
一方で、自分だけが知っていることもあるかもしれない。
逆に、自分だけが知らないということもあるに違いない。
このように情報格差としてその差が生まれているところにおいて、人は比較することで優位性の有無を感じてしまう。
そのことに対して存在しないはずの恐怖に駆り立てられてしまい、気が付いたら知らないことが良くないことのように感じてしまう。
知っているほうが良くて、知らないほうが悪い。
全てが情報格差によって、分断が生み出されているようにも感じる。
実際のところ情報がある人のほうが優位に立ち回れることも多いため、事実上の情報差が身分差になっていることも大いにあるに違いない。
とはいえ、本当に情報格差として情報を持っていることが本当の意味で強いということが出来るのか。
本当に強い人、それは「無知」であることをさらけ出せる人。
「知らない」と知りながら、勇気をもって発言することが出来ること。
知らないことであっても、前に進んでいくことが出来る人。
無知であることを知っていて、そのことに対して謙虚であること。
知らないということによって、行動を止めることがない人。
そのような人に対して、その誠実さと勇敢さに惹かれていく。
そしてそのような人は果たしてどのくらいいるのだろうか。
そして、自分自身は無知であることを、どのような場面であっても認めることは出来るのだろうか。
ありがとうございました。
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