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「隠すこと=悪」として無条件に糾弾される社会
あらゆる分野で隠されていることが表になってきているのは、多くの人が感じている所。
政治の闇。
企業の闇。
芸能界の闇。
環境問題の闇。
SNSの闇。
国家権力の闇。
利権の闇。
歴史の闇。
多くの闇に光が照らされ始めて、見えなかった部分がますますみえるようになってきている。
隠していたことが内部告発で暴露されることが増えてきている。
そしてそれがあちこちで一気に吹き上がっている。
権力者は知ってはいけない人が知ってしまったら、口封じのためにあらゆる手段を尽くしていた時代もある。
一蓮托生として、仲間の中で裏切ることで本人が不利益になるように仕向けて逃げられないようにしていたのもあるかもしれない。
とはいえその効果が出ていたのは、隠すべき情報を知っていたのが少人数だったから。
内部告発や密告は裏切者として激しい制裁を個人で受けることがあったかもしれないが、いまではその技もあまり通用しない。
それは多くの人に一瞬で情報が拡散されてしまうから。
見せしめとして表にした人を消すこともあるかもしれないが、その効果も以前と比べると薄れてきている気がする。
何とかレッテル張りに終始して逃げようとすることが出来たはずが、もはやそれすらできなくなりつつある。
嘘であろうと本当であろうと情報が一度出てしまうと、もう抑えることはできないのだから。
隠すためにまずは注目されないことが大切だった。
木を隠すなら森の中。
多くの人やメディアに認識されないように努力していた。
万が一気が付かれても、何か別の関心にうまく振り向けることが出来ればある程度は逃げることが出来た。
しかしながら、最近では気を逸らすような出来事があっても注目の的から外れないという事態も増えてきている。
というのも、情報を煙に巻いて逃げてしまう事を先に想定されていまっているから。
同じ手段が通用しない。
何度も繰り返して蒸し返されることで、そのたびに隠していることに注目が向いてしまう。
そして隠していることそのものが悪として、糾弾されるようになっていく。
そして逃げられない。
隠すことで糾弾されることは元々あったが、現在の流れではこれから隠すことに対する糾弾がますます激しくなっていく。
無言を貫くことは推定無罪ではなく、推定有罪になるのも時間の問題である気がする。
行き過ぎた先にあるのは、中世の魔女狩りの世界。
正直に話しても信じられずに有罪、隠しても有罪、何をしてももはや有罪として糾弾され続ける世界。
必ず火あぶりになり、絶対的に逃れられない状態。
そうなってくると、正しい証拠や根拠に基づいて発信しないことは大きなリスクになってくる。
というのも本当に無罪であったとしても、発信しないことで有罪として不利な状況に追い込まれていくから。
隠すことがあればあるほど、不利な状況になって行く。
そしてそれに対して嘘で回避しようとすると逆にロジック破綻がどこかでやってきて、さらに窮地に追い込まれる。
今の時代は、隠していることはリスクそのもの。
隠しているそぶりを少しでもするだけで、大きなリスクにつながる。
だから隠し事を出来るだけ減らすことは、それだけで大きなリスク回避となる。
普段の行動から嘘がない表だけの状態が世間から求められてくる。
つまり誠実であることそのものが最大の防御になるということ。
全てが見える化される時に隠されていることを持たないこと、すべてを表にして全く問題ないという姿勢が求められる。
そしてあらゆる物事で隠すことが出来なくなった時に、本当の意味で次の時代を迎えるような気がする。
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ありがとうございました。