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良かれと思った善行が、「最悪の結果」を引き起こした場合の責任は?

働くとは「はた(傍)」を「らく(楽)」にすること。

「誰かの役に立つ」ということは、双方に幸せをもたらす。

多くの人が、誰かの助かになることを幸せに感じる。

そして良いこととして、多くの人を助けている。

誰かが困っていたら、手を差し出して助けてあげる。

相互に助け合う社会、とても素敵なこと。

日本に住む多くの人が、「少しでも周りを良くしたい、幸せにしたい」と思っていることは、間違いない。

しかしながら、その良かれと思った行為が、結果的に悪い方向に働くということも時にはある。

善行のつもりが、結果としては最悪を招くこともある。

その場合は、その行為そのものが批判や攻撃の対象になることもしばしば。

その時には、「責任」というものはどのようになるのだろうか。




多くの人がとても困っていたコロナ禍。

未知の病気ということで、散々騒がれていた当時。

メディアがただひたすら恐怖情報を流し続けるご時世。

人によってはそれを直で受けて、とても恐怖におびえていたかもしれない。

その場において、ワクチンが今か今かと待たれていた状態だったのが懐かしい。

そしていざワクチンが出来るとなると、誰もが自分のために、そして周りに迷惑をかけないようにするためにとして、何回でも打つことを望んできた。

その結果、かなりの打ち手が足りないということになることに。

多くの医療従事者が、覚悟を決めて自ら進んで病院という戦いの場にいく人もいたに違いない。

もちろん、時には多くの報酬を得るということもあったかもしれないが、その本心としては「善意」からというものもあったかもしれない。

その結果、当時は多くの人に感謝されたこともあるかもしれない。

医療従事者がしっかりとワクチン接種に動いてくれたことで、多くの人が救われたと。

一方で、ワクチンそのものに反対する人は「反ワクチン」「非科学的」「迷惑な人」「間接的殺人者」として扱われることに。

誹謗中傷されたとしても、それは迷惑者なのだから当然の報い・仕方ないというのが、当たり前にまかり通っていたあの頃。

しかしながら、あれから4年以上の時間が過ぎて、風向きが徐々に変わりつつある状態であるように感じる。

ある意味、超過死亡や後遺症等のネガティブな効果があまりにも出すぎていて、表にまともに出すことが出来ないくらいに。




mRNAワクチンに関しては、世界中で色々と評価がひっくり返りつつある。

あれだけ善とされていたワクチンが、懐疑的にそして逆効果であることが示されつつあるように感じる。

論文によるエビデンスも増えてきて、史上最悪の薬害だと考える人も増えつつある。

とはいえ、明治製菓ファルマのようにネガティブ情報として流布されていることに対して法的処置を取るという発言もある。

トコトン裁判で争うということらしいが、これはこれで果たしてどのようになるのだろうか。

おそらく情報統制がしっかりとなされていて、ガラパゴスである日本としては、おそらく最後の最後に権威側が梯子を外してひっくり返ることになるような気がする。

とはいえ、もしその時がやってくるとき、当時に「善行」と思っていたことが、最悪の結果を招いていたことを知ることになるかもしれない。

そのことに対して、多くの人々はどう思うようになるのか。

「騙された」というのだろうか。

不都合でとても嫌なことをみせられたことに、怒りを感じるのだろうか。

そして「あの時は仕方なかった」という言葉で片づけられることに対して、被害を被った当事者は果たしてどのように思うのだろうか。

医療従事者として心から誰かを助けたい、その「善意」でやったことが、結果としては最悪になってしまったということに対して、どのように感じるのだろうか。

もしmRNAワクチンが「善」から「悪」の代名詞に変わり、それがお墨付きとして認められてしまうとどうなってしまうのか。

過激な場合、もしかしたら「医療従事者でワクチンの打ち手となった人は全て殺人者だ」という発言をする人も、増えてくるかもしれない。

それによって人によってはまじめ捉えすぎてしまい、「殺人に加担してしまった」と考えて思い悩むことも、あるかもしれない。

それによって心が崩れる人というの人も、いるかもしれない。

果たしてそれはどのように考えるべきなのだろうか。

そもそも善行のつもりが最悪の結果になった場合、それは責任を取るということに値するのだろうか。

善意であれば、すべてが許されるという状況になるのだろうか。




簡単に善悪がひっくり返る時代、それは大きなパラダイムシフトが迫っている時。

戦前と戦後でガラッと価値観が逆転するように、今もある意味そのような分野が増えつつある。

その結果として、良いことをしたつもりが、最悪の結果になることも増える。

逆に悪いことをしたつもりが、結果として最高の結果として褒めたたえられるようになることもあるかもしれない。

行動や発言ひとつひとつが、とても難しい時代であるようにも感じる。

もちろん何が善で、何が悪であるかは、その時代とトレンドと大衆が決めるもの。

その結果がひっくり返り続けることに一喜一憂している暇もないほど、時代はここからさらに激しく揺れ動いていく。

どのような未来が待っていようとも、心にとっての「善行」としていることがある意味で救われてほしい気もするが、果たして世間はどのように評価するのだろうか。

とても難しい問題であるが、いずれやってくる可能性の高い秩序がひっくり返った未来。

早めに備えて考えておくに越したことは無いような気がする。




ありがとうございました。

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