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大激動時代であっても、認識していなければそれは無風

騒がしいニュースがひっきりなしに流れている。

それに対して、これは大ニュースと騒ぎ立てる人々。

大変なことが起きてしまったと嬉々として報道するマスコミ。

これはとんでもないということが起きていると、いち早く取り上げるユーチューバーたち。

未来を予測するアナリストたち。

それぞれが様々な思惑の中で、自由に発信をしている。

そのことに巻き込まれたら大変だと身構える視聴者。

どんなことになってしまうのだろうという不安だけがのこる情報の受け取り手。

情報格差によって、それぞれが瞬間的に過剰反応を起こす。

そのことがさらに過剰にSNSという装置で増幅することで、ますます大変であるように映る。

一方で、全く動じない人もいる。

それは、大変であるという事そのものを認識しない人。




どんなに大変なことがあっても、そもそも認識しなければなんにでもない。

認識出来ないということは、見えていないという事。

何もなかったかのように反応することもなく、特に驚くこともしない。

一方がひたすら脅かそうとしても、全く効果がない。

危険なアラームを鳴らすこと、それすら認識されていない。

究極的に存在として認識しないことによって、ある意味難を逃れているということもあるかもしれない。

バイデンとトランプの大統領選の討論においても、英語のニュースでものすごいことが発覚しても、そもそも英語が分からなければ何がすごいか認識できない。

ロシアとウクライナの間で行われている出来事や、イスラエルとパレスチナで起きている出来事であっても、歴史的な大局構造を知らなければ何がすごいのかは認識できない。

コロナ騒動があった時代でさえ、その情報を認識していない人にとってはなんにでもないことであり、もしかしたら周囲の人々が勝手にヒステリーを起こしているだけに映ったに違いない。




認識できること、認識できないことは、人によって全く違う。

同じ世界を見ていても、認識できる範囲は全く異なる。

多くの人に見えているものであっても、ある人には見えない。

逆に多くの人にとって見えないものであっても、ある人には見えることがある。

この認識の差によって、その人が物事を大ごとと捉えるか、そもそも存在しないものになってしまうかが分かれる。

その認識差が当たり前に存在しているものの、それを本当の意味で認識することはとても難しい。

そもそも認識できないものを認識しようというものであるから、なおさら困難である。

そして、認識の有無をうまく活用出来ている人にとっては、ある意味心はいつでも穏やかにできるというのも言えている。

なぜならそれは大激動の時代であっても、認識していなければすべては無風であるから。

何も感じないことに対して、心は動かないし、動かされることもない。

ただあるべきものが変化している、ただそれだけのこととして目に映るだけ。

究極の無の状態にあること、それは良いともいえないし悪いともいえない。

自らの意思で認識状態をコントロールして、自分の最適なストレス環境に世の中を変化させる。

これが出来るかどうかによって、情報が溢れる時代のストレスは大きく変化するに違いない。




ありがとうございました。

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