当たり前を疑うには、まずは「常識のパワー」を認識するところから
それ常識だよね。
常識的に考えると当然。
あの人は常識人だ。
様々なところで常識という言葉が使われている。
どちらかというとポジティブな印象。
常識通りであることは、ルールに従っているということ。
常識とは多数派であるということ。
TPOをしっかりと守ることも常識。
常識によって、様々なものが守られているということもあるに違いない。
とはいえ、それは常識の見え方の一つに過ぎない。
常識というもの、そこには一つの重要な側面があることを忘れがちであるように感じる。
常識化、それは「隠すことに成功した」ということ。
常識になってしまえば、誰からも基本的に疑われない。
当たり前のこと過ぎて、そもそもその議論をしたところで広がらない。
「これが常識」と言われることによって、それが正当性を帯びる。
常識に従っているということは、基本的には間違いを犯さない。
常識から外れることの方が、リスクが大きい。
常識というものはとても強いもの。
その結果として、誰からも気に留められないという意味で隠すことが成功したという事。
空気のように当たり前のこと、それは存在していても見えないという事。
常識化に成功すること、誰もが当たり前だと思うように持っていけること、それはものすごい力を発揮する。
常識によって隠されたこと、それが仮に不都合なことであったとしても認識されなければ問題ないとなってしまう。
隠されてない状態で、堂々と隠された状態になる。
その結果として、本当に疑うべきことが疑えなくなる。
いくら根掘り葉掘り、なぜなぜを繰り返したとしても、本当の答えにはたどり着くことは無い。
その結果として、おなじところをぐるぐるし続ける状態に陥る。
なかなか解決できていない問題、それはひとえに常識によって解決が出来ていないだけであることもあるかもしれない。
そのことすら認識出来ない状態、それが常識によってなされていること。
常識というもののパワーは半端ないように感じる。
常識に対して、どこまで疑うことが出来るか。
そのきっかけをどこからつかむのか。
一番手っ取り早いのは、完全に異文化の世界を経験してみること。
それは人によっては転職かもしれないし、海外旅行かもしれない。
少なくとも何らかの形で越境することによって、常識が見えてくる。
常識を見えるようにすること、それが出来なければそもそも隠されていることすら認識出来ないということ。
まずは常識を見えるようにする、それが第一歩であるように感じる。
しっかりと見ることが出来るようになってから、あらゆるものが比較できるようになる。
当たり前で隠されていたものを再発見すること、それは感動の源。
常識で隠されていた0を1にすること、それはとても楽しいこと。
様々なものが見えるようになることは、とても素晴らしいこと。
常識を見えるようにして、そこから本当の意味で心を自由にしていく。
それが出来るようになれば、自分の人生を取り戻すとともに、人生は一気に楽しく華やかになって行くに違いない。
ありがとうございました。