無駄にモノを増やしたくないという思考と大量生産社会について
物欲が過去よりもかなり落ちてきている。
最近買ったものは、食料のように消えてなくなるモノか体験のみ。
家の中に物理的なモノをさらに入れようという気がなくなってきた。
部屋がそこまで広くないからというのもあるが、それ以上にシンプルを目指しているというのもある。
さらに折角部屋の中に存在しても活用されないものがあると、無駄を強く感じるようになったというのもある。
モノが使われていないままずっと保管されていること。
それは空間をただ占拠しているだけ。
使ってあげることがないと、そもそも存在が無意味のように感じてしまう。
モノには自分で買ったものや、他の人からもらったものなど色々とある。
でも、最近は仮にもらったとしても、違和感を感じるものはすぐに手放す。
訪問した先でパンフレットをもらったり、何か他にも粗品をもらうことがあっても、それを使うことは無くすぐにゴミ箱へ。
会社で何か景品としてもらったものであっても、自分の家に似合わないように感じたら捨ててしまうことが多い。
なので、出来るだけモノについては持ってこないように、もらわないように心がけている。
自分自身に渡されるよりも、もっと有意義に使ってくれる人が絶対にいるだろうから。
そして、そもそも無駄なものを世の中で作りすぎて配りすぎているのではというのも感じるところ。
大量生産社会によって、モノが溢れすぎている。
その溢れたモノたちが、倉庫の肥やしとなり最終的に沢山のごみとなって捨てられている。
もちろんモノによっては、作っても作ってもまだまだ足りないものもあると思う人もいるかもしれない。
ただ正直なところ、すべてのものが作られてしっかりと活用されて役目をしっかりと果たしきるものはどのくらいあるのだろうか。
作りすぎ、それは色々なものを無駄にしている。
資源や人の時間、そしてその周りに関わるありとあらゆるもの。
もちろんモノが足りないという状態であれば作るのはいいかもしれないが、作らないと経済的に成長しないという資本主義的な考え方があまりにもまん延しすぎている気がする。
作ることは経済的にプラスになるとしているが、そもそも使われなければ本当の意味でプラスにはなりえない。
そのよくわかる一例として、中国で売れなくなったタワマン不動産を鬼城として、爆破解体している映像。
せっかく作ったことというより、その資源があまりにも有効活用されなさ過ぎてとても悲しく思う。
というより、人間の欲望が地球に対してかなり失礼なことをし続けているような気がする。
あまりにもこの状態が続いているということ、それはそのうち人間側が自然からのし返しとして、淘汰されるようなことがあっても正直なところ仕方ない。
経済成長を善とする資本主義社会のままだと、この状態がいつまでもずっと続く。
いっそのこと、経済成長を無くすか、その原動力となる人の数そのものをおもいっきり減らした方が良いのではとも感じる。
モノが溢れても、心が豊かになることは無く、いつまでも本当の意味で幸せになれることは無い。
気が付いている人は増えている気がするが、まだまだ少ない気がする。
そろそろ本気で世界中が資本主義と経済成長を善とすることのおかしさに気が付いてほしい。
そして、そこから本当の豊かさの方向に方針転換したらなと感じる。
ありがとうございました。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?