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自分の持つ意見と「逆側」のエビデンスを探す習慣をつけること
様々な物事を進めるときに、人によって常に求めることがある。
証拠は何?
根拠は?
エビデンスを出して。
その言葉通りにそれっぽい証拠や根拠となるものを持ってくることが多い。
例えば論文であったり、事実を積み重ねたロジックであったり。
それがあるだけで何となく安心して、「エビデンスあるならやろう」という人も意外と多いに違いない。
他にも「○○が言っていたから」「☓☓がおすすめしていたから」「あのインフルエンサーが推していたから」など、色々な種類のものをエビデンスとすることがある。
とはいえ、それは本当に根拠になりうるのかという事が特に気になること。
国・偉い人・権威・メディア・考えが近くて好きな人などの発信は、それだけでなぜかしら根拠になってしまう。
そしてそれこそが自分の持っている意見と勘違いし、気が付いたら外部の意見が自分のものになっていることもよくある事。
それを妄信してエビデンスとしてしまうこと、それはかなりのリスクがあるように感じる。
そもそもエビデンスは、その段階でのある条件・方法を試した仮説に過ぎない。
ある一定範囲で、その時にたまたまそうなったに過ぎないことが断片的に書かれているだけ。
だから、状況が変わったり、人や立場が違うことがあれば、全く別の逆側のエビデンスも出てくる。
その人の解釈次第で、全く別のものになることもよくあること。
さらに人の認識は自分の意見を肯定する意見しか見ることがない、聴く耳を持たないのが普通。
いわゆる「確証バイアス」と呼ばれるもの。
それによって自分自身の説を補強し、そのエビデンスとされるもののみを探す。
その結果として、逆側のものについては認識されることなく、見落とすのが関の山。
エビデンスを見落とすことはありがち。
それはある意味人間であるから仕方がないこと。
では、どのようにすればいいのか。
それは、自分の意見の「逆側」のエビデンスを探すこと。
自分が持っている意見側のエビデンスについては、努力しなくてもいくらでもありつくことが出来る。
一方で逆側のエビデンスを認識出来ないのが普通であり、そちらを探すことはかなり価値がある。
というのも、両方の意見を持ってこそバランスが良くなるから。
そして、両方を比較することでより持っている意見を次の段階にブラッシュアップできる。
その結果として、より優れた考えや見落としがちな考え、意見の弱いところの補強などにも気を配ることが出来るようになる。
どのような立場で何を見ればこのようなエビデンスになるのか、客観的に把握することが出来るという事も含めて可能になる。
もし他人が意見を求めるのなら、その人にとって都合の良いものを示しておしまいでもいいかもしれない。
しかしながら、逆のものが常に存在することも含めて伝えることも時にはいいかもしれない。
ある意味全てにおいてバランスの良い状態というものが一番心地よい状態。
良いも悪いも、善も悪も、あくまでも片側から見たものにすぎない。
誰かの持っているエビデンスについても、反証可能性はいつでも溢れている。
だからこそ、常に逆側のエビデンスを求めること、それが習慣化している人はとても強いに違いない。
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ありがとうございました。