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ヴラジスラフ・ヴァンチュラ『マルケータ・ラザロヴァー』 第1章(1)

第1章 

 狂気は計らずも瀰漫する。此の話の場所を不穏な時代のムラダー・ボレスラフに設定するがよい。それは、文字通り盗賊まがいの振る舞いを見せ、血が流れても笑みを浮かべる貴族に四苦八苦していた王が曲がりなりにも街道の安全を確保しようとしていた時代のことだった。我が民族の高貴さ、優雅な道徳を存じている貴方は焦燥感に駆られるだろう。会食の折にテーブルで水を零せば料理番は遺憾に思うが、今から私が話を始める男共は悪魔の如く血気盛んになる。種馬に喩えることすら躊躇する荒くれ者だ。貴方が重んじる事柄のうち、彼等が気にかけるのはごく僅か。櫛や石鹸など、論外! 神の掟すらも無視する輩なのだから。

 この種の凶賊は数多いると言う。だが、この物語が扱うのは、不相応にも、ヴァーツラフの名前を想起させる一族である。狡辛い貴族! 血に塗れた時代、最年長の人物は愛らしい名前で洗礼を受けたが疾うにその名を忘れ、醜悪な死が訪れる迄、自身を「コズリーク」、即ち「山羊」と呼んでいた。

 こう名乗ったのは洗礼を有り難く思わなかったからだが、彼の風貌もまたその名に一役買っていた。男は獣の皮を全身に纏い、さらに禿頭に羊の皮を被っていたからである。頭蓋骨を保護していたのは、骨が割れた折に粗雑にくっ付けたからに過ぎない。

 今日の軍人であれば医師が紅茶のスプーンを口に差し出す前に落命しているに違いないが、あのコズリークは別だった! 粘土を頭に投げつけた後で馬に跨り帰路に着き、野蛮な拍車で蹴られた馬は血を流していた。勇敢で金切り声を上げなかったこと以外の記憶は留めなくてよい。そう、かのような烙印が押されたコズリークには八人の息子と九人の娘がいた。残念だが、このような祝福を神の思し召しとは捉えず、七十一の歳で一番下の息子が生まれた時でさえ、同世代の者の前で自慢したほどだった。その子が洗礼をした時、妻カテジナは五十四の歳に達していた。

 (・・・)

 物語の時代、大地は肥沃で、牧草は永久に続く緑色をなしていた。草を刈る者の頭が辛うじて草の間から見えた。このような魅惑的な草原であっても、喉を掻っ切る輩の気を引きはしなかった。散々追い回されて乳房が空になった二、三頭の牛は放牧よりも行商が向いていたであろう。蕾や綿毛を口一杯に詰められた牛は、コズリークの野蛮な子分たちにあっという間に荷車まで幾度となく引っ張っていかれる。あとは角が縄で括り付けられるだけだった。

 哀れな獣たちは、中心がずれた車軸を馬のように牽く。

 然し乍ら、何故、彼等は移動と逃亡を続けるのか? コズリークと息子たちは皆、盗賊だった。一族の女性もそう呼ばれるのは遺憾でならない。彼等は盗賊の一団だった。働く気など毛頭なかった。魅惑的な草原には木立があり、一族の癒しとなる砦、ロハーチェクは荒廃し、十年ごとに野焼きをする。その間、森に身を隠すのだ。火が回っている時、身重の女はどうする? 何もしない! 盗んだ鍋から鶏の汁物と麺を貰うだけ。その後、大聖堂の門や眠っている床で捕まえた司教が連行される。どのような異論を宣うのかは見ものである。司祭には職務を全うしていただきたい、盗賊たちも宗教には一目置いているのだから。果て、赤子が洗礼を受ける前に消え入ったらどうなる事か! 我々の物語が語る年は、当時の基督教同様、厳冬であった。牛の蹄の先端は寒さのあまり火傷した蹄鉄の如くになり、乳房には数珠のような氷の玉が付いていた。このような日には火の近くにいるのが好ましい、だが辛うじて屋根がある場所か、牛舎の小枝の束の上で眠るのが精一杯だった。不幸なことに、盗賊に憤怒していた王は、連中の首を刎ね、吊るすべく、ザクセンの街道に一連隊を送り込んでいた。コズリークはロハーチェクで防衛線を張ろうとしたが、池の堀に厚い氷が張り、砦の真下まで軍隊が接近できる状況になっていた。遮る物が何もない野原で、コズリークの一族は五十人の相手に立ち向かうことができるだろうか、果たして、今、何人が残っているのだろうか?

 「ミコラーシュ」、長老は狼のような歩みを緩めずに言葉を発した。「馬を二頭、残っているトルコの生地、婦人のために贈り物を携えて出発しろ! ラザルのところへ向かえ!」

(C)Kenichi Abe, 2022.

ヴラジスラフ・ヴァンチュラ(1891年6月23日、オパヴァ近郊ハーイ生まれ、1942年6月1日、プラハ没)。『マルケータ・ラザロヴァー』は1931年に発表された長編小説。詩人のイジー・マヘンに捧げられている。1967年には、監督フランチシェク・ヴラーチルによって映画化された。

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