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ゆる日記 2022.6~8

2022年7月5日

春から夏にかけて、いろんな人が福島にいるおれを訪ねて来てくれていて嬉しい。この日は大学の先輩が東京から。おれ自身が、毎回同じところに行っていても飽きちゃうので、毎回ちょっとずつコースを変えている。大学生の頃に浜通りの観光研究をしていたので、その延長で拙いガイディングをしながら巡る。語ることで、自分がいかになんにもわかっていないかがわかる。多様で複雑化した課題、そのひとつひとつを確実に捕捉することは難しい。ましてひとりひとりの思いに「寄り添う」など傲慢で、自分が置かれている立場でできることをやっていくしかない……と伝えつつ、自分にも言い聞かせている。

いわき湯本温泉・古滝屋のロビーにはでっかい本棚があって、選書がすばらしい

この日は行ってみたかった温泉旅館「古滝屋」内の原子力災害考証館へ。中間貯蔵施設の企画展をやっていた。福島第一原発を取り囲むように広大な土地が国によって取得され、除染作業で発生したものがそこに集められている。その土地がどんな交渉を経て受け渡され、元の土地の所有者は何を思っているのか。国や県の施設ではなかなかこの問題を深く取り上げることはないし、ニュースでもあまり聞かない話。そもそも知るチャンネルがなければ話題にあがらない。

温泉旅館なので当然そのあとはひとっ風呂浴びる。いわき湯本、たいへんアツい(物理的にもそのほかの意味でも)。大学のときに石炭化石館にインターンでお世話になったので、休館が明けたらまたご挨拶に行こうと思う。

2022年7月29~31日

FUJI ROCK FESTIVAL '22がすばらしかった。ふだんは国内のアーティストばかり聴くので、海外のすばらしいアーティストの音楽に触れることができたのがよかった。DAWES、BLOODYWOOD、Elephant Gymが特に最高。
国内組は、初日に登場したクラムボンが、一番好きな曲「yet」をエモーショナルに演奏してくれてグッときた。”ここにいる 僕ら つづけなくちゃ” というフレーズは、諦めても諦めきれなくても続いていく日々への、やさしく、それでいてパワーの込められたエールだと思う。


最終日のフィールド・オブ・ヘブンでの中村佳穂。「眠れない夜、みんなにも、ある、ある?」「ゆるやかに狂って、狂って」と、語りかけるように自由に歌うパフォーマンス。虜になった。それからというもの、ずっと中村佳穂を聴いている。楽しくゆるやかに狂って、はじめてまともに生きられるよなと思う。


2022年8月3日

夜、葛尾村で2時間ほどの停電が発生。取材いただいたこの記事の最後でも語ったことだけれど、ほんとうにこのあたりは停電が多い。

帰還困難区域を中心に、山深いところの送配電網のメンテナンスが行き届いていないのではないか。帰還や移住を促進するというのであれば検証が必要だと思う。

現代日本では憲法で居住移転の自由が認められているため、当然あの原発事故後に出た避難指示は、原理的には憲法違反ということになる。では今後、山深い地域に暮らす人、極端に言うと集落にひとりだけポツンと残って住んでいるような場合に、誰がコストを負ってそこのインフラを維持していくのか。待ったなしで議論すべきことだと思う。自由を保証し続けるか、段階的に撤退する策をつくるか、切り捨てるか。インフラのメンテナンスを今までの延長線上で対応しコストを積み増し続けるか、ZEH(ゼロ・エネルギー・ハウス)などの小規模分散型のシステムを加速的に普及させるか。手が入らなくなった山々には野生動物が増えるだろう。獣害はどうするのか。農林業の担い手は減るだろう。自然の恵みをだれがどう流通させ、だれがどう享受するのか。住む人がいなくなったらそこは放っておくのか。考えることは山ほどあるし、ここ葛尾村から立ち上げていくべき論点はあまりにも多い。

2022年8月21日

ふたば未来学園演劇部の「葛尾劇 宝宝宝」を観る。第一部では野行地区に伝わる「宝財踊り」を、第二部では震災後の葛尾を生きる人を高校生が演じる。それぞれ、ある意味では外部から「演じられている」ため、「ほんとのほんとに宝財踊りをみて、ほんとのほんとに語りを聴いた」ということにはならないが、だからといって「うそ」でもない。高校生(や卒業生)のみなさんが自分のなかに取り込んで解釈したものやその副産物(緊張した表情とか、微妙な間とか)が表出している。それを直接受け取るという体験は、元来その地で踊られてきた宝財踊りをみることや、人から直接話を聞くことともまた違う。もしかしたら、直接よりも上演されたもののほうが、予期せぬ気づきが生まれやすいということもあるのかもしれない。

第一部の会場、広谷地の集会所には初めて来た。
小さい村だけど、何か月も住んでいても知らない場所がたくさんある。

自然が豊かで、伝統文化があって、人があたたかい。どの地域でも語られる普遍的な地方の価値はたしかに魅力的である。しかし、高校生がひとつひとつの踊りを、ひとりひとりの語りを演じているのを目の当たりにすると、その大きな物語に回収されない機微が、脳裏に浮かんでは消える。「復興」や「地域活性化」のためだけではない、生の多様さや複雑さ、なにかをつくったり踊ったりせずにいられない人間という存在。なにもないと言われる村にも、そんなことを感じる舞台をつくることはできる。「災害があって悲しかったし大変でした、復興して元気に頑張っています」それも間違いではないけれど、感じられることはそれだけではない。


2022年8月25日

「原発(次世代炉)の新増設を検討するというニュース、どう思った?」とふと聞かれた。
「太陽光パネルや蓄電池だって、元をたどれば児童労働や被曝の危険にさらされる環境での資源採掘など、ほんとにクリーンでエシカルなものなのかという問題はある。原発事故はたまたま国内に大きなダメージが生まれたということで、それがアフリカや中国の山奥に違う形で転嫁されているだけなのであれば、あの事故から何も学んでいないということ。そうやって考えていけば、そもそも先進国でエネルギーを潤沢に使うということは加害から逃れられないのではないか。その被害-加害の構造から逃れられるとしたらどのようにしてか、という議論をしない限り、悲しいことを繰り返すと思う。残念ながら今の政治がそれに向き合うことはないだろう。原発の処理水海洋放出だって同じことで、結論ありきで、プロセスは形だけ。だからといって、立場の様々な人が集まって合意形成をする場をつくってファシリテートし、みんなが納得してこれでいこうと思えるところまで持っていくのは大変難しい。多数決がいいとも思わない。どうすればいいのか…。」
まともに考えすぎるとしんどくなるので、ゆるやかに狂いながら、でも蓋をして閉じ込めることはしないで、なんとかやっていきたい。

※記事のヘッダー画像は家庭菜園。トマトはなるけど、ゴーヤはならない。今年の夏は涼しかったからかな…。グリーンカーテンが育つ前に夏が終わってしまう。

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