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脱炭素むずすぎ問題と、それでも生き続けるための思索のあれこれ

年明けから学びの多い日々だった。

原子力災害の被災地で太陽光と蓄電池でマイクログリッドを組んでいる地域新電力の会社に勤めてもうすぐ1年。いわゆるエネルギー問題について、いろんな人がいて、いろんなことを言う。でも全体を捉え切れずに、わかるような、わかんないような感じで過ごしてきた。

食糧とエネルギー

食料安全保障をテーマに書かれた、篠原信さんの『そのとき、日本は何人養える?』を読んで、なんとなく全体像が掴めてきたように思う。食料安全保障とエネルギーって別物じゃないの?と最初は思ったが、表紙をめくるとそこには「わたしたちは石油(の力でつくられたコメ)を食べている?」というパンチライン。コメ1キロカロリーを得るのに、化学肥料や農薬を生成し、トラクターを動かし、そういったものをトータルで考えたときに1.86キロカロリーの化石燃料を投入しているという。

全く考えたことのない視点だったけど、確かに、ペットボトル飲料水よりも石油のほうが安いなんていうこともあるくらいだ。これまで人類は、地中からひたすら大量のエネルギーを掘り出し、使いまくることで、人口を増やし、経済活動を拡大しつづけてきた。しかし、それがずっと続くわけではなさそうだ。簡単に掘ることができていた石油は、だんだん掘るコストが上がり、掘り出すために必要なエネルギー量が、掘り出した結果として得ることができるエネルギー量に近づいてきている。さらに人類は、石油などの化石燃料を使い続けることの環境負荷にも気づいてしまった。国家同士の対立もある。いつでも安くグローバルに化石燃料が流通したくさん使えるという状況は、不変のものではない。

脱炭素といえば再エネだろう、という安直な考えで転職先を選んだ面も否めないのだが、その再エネも万能ではない。家庭の需要を電化し再エネを活用することは現実的になりつつあるが、農林水産業や工業、交通・運輸の分野で使う大きなエネルギーを電化することは簡単ではない。石油ほど高密度で持ち運びやすいエネルギーはないのだ。蓄電池は低密度で体積がデカくなってしまうし、水素は温度の管理が難しい。科学はめざましい進歩をとげてきたという印象があるが、しょせんは化石燃料の使い方がうまくなっていっただけだった。この認識には膝を打った。

思えば、転職後によく出会うようになった、エネルギーを突き詰めて考えている人は、ほぼみなさん、食料についての問題意識も併せ持っている。これまではそのことにピンと来なかったのだけど、この本を読んでよくわかった。鎖国をしていた江戸時代、日本の人口は3,000万人から増えなかった。それ以降、エネルギーを投入して空気から化学肥料をつくるハーバーボッシュ法という技術によって、各地でそれまで以上の人口を養える食糧を生産できるようになった。しかしそれは、石油を安く掘り出せているうちの話だ。パンデミックや戦争、「まさか今の時代に」と思うことばかりのここ数年。未来にある「飢え」というリアリティにも、絶望しすぎない程度に、目配りはせねばならない。

エネルギーと地域、エネルギーと人文

1月18日にいわき市で行われた福島県主催の「ふくしま再生可能エネルギーフォーラム」に登壇させていただき、各分野で第一線でご活躍されているみなさんとディスカッションさせていただく機会に恵まれた。例えば洋上風力発電とその海域での漁業について、どのような共生が図られていくべきか?というような議論が主で、業界初心者としては知らなかったことばかりで大変刺激的だった。みなさんのお話を聞きながら、腑に落ちたことがある。

われわれは日々何を口にし、何に力を借り、どんな価値に換えて、それを交換し合いながら生きていくのか。それが地域のビジョンであり、エネルギー政策であり、産業政策だろう、ということだ。異なる利害を持つ者同士が対話するとき、日々の暮らしや、それが続いていく未来といった、共有できる等身大の視座がなければ、納得できる着地点など見出せるはずがない。それに、その視座がなければ、そもそも何のために対話しているのかがわからず、おれの邪魔をするな、いやそっちこそ、という話になってしまう。

必要なのは、エネルギー産業や電力制度に関する知見、一次産業に関する知見、テックに関する知見、だけではない。永く地中に眠っていた過去の動植物の屍を掘り起こし、それらを燃やして生きていることに対して、どんな印象を抱くのか。それをできる限り避けたいという場合、どんな生活が「いいな」と思えるのか。心を動かされる、交換したくなる価値とは何か。誰かに感じてほしい、わたしの、あるいはわたしたちの魅力とは何か。そういう、人によって答えが異なる問いに対して、ぐるぐると絶えず考えていく。こういうことが必要だという気がしてならない。等身大の暮らしや仕事を、科学的にも人文的にも捉えるというか・・・。こういうことを一緒に言語化して深めていけるコミュニティが、人間がこれから生き延びていくうえでのひとつの単位になるんだろうなと思う。

エネルギーとアート

私が暮らす葛尾村にアーティストが滞在し表現をする、Katsurao AIR(アーティスト・イン・レジデンス)という取り組みがある。アーティストのひとり、尾角さんが村の新電力事業について着目してくださって、VR上で電気の神様に参拝できる作品を制作してくださった(たぶん何を言っているかわからないと思う笑)。あたりまえと思ってしまう日々を、何に護られて過ごしているのか、そこに参って拝むときに何を願うのか、思考を揺さぶってくれる作品だったように思う。テクノロジーや事業を数字で評価し妥当性を判断することは極めて重要だが、一方で、こういった自由な表現を起点に考えることも忘れてはならない。ちなみにこの記事の見出し画像は、参拝する私である。

ベーシックインフラの実践

1月19日、東北食べる通信が展開する「雨風教室」のオンラインケーススタディを覗きに行った。宮城県川崎町でベーシックインフラの自給自足をめざす「百(もも)」の取り組み。人間は食べる量の30倍のエネルギーを消費しているという話、リチウムイオン電池のサプライチェーンの話など、いやあそうだよな、そこ大事だよな・・・と唸ってばかりの2時間だった。おそらく、メンバーのみなさんの間で、たくさんの科学的かつ人文的な対話があってこその取り組みなのだろうと想像する。DAY2の現地ツアーはお邪魔できなかったけれども、そのうち遊び行きたいと思う。

無理ゲーでも生きていくために

関係ないけど、礼賛というヒップホップ生バンドにめちゃくちゃハマっている。演奏も歌もめちゃくちゃいいのだが、CLR(ラランド・サーヤ)さんの詞もすばらしい。

生きる意味とか明日の希望
ちょうどいい理由を探すけど
死ぬまで生きるそれがルール
おぎゃあと生まれたそれで十分

礼賛「U」

生きることの面倒くささやうまくいかなさ、社会のどうしようもなさ(例えば、この記事に引き付けて言うと、脱炭素の無理ゲーさ)。ひとりでできることなど限られているけれど、できることからはじめるしかない。そして、できることがあまりないという不全感。そういう気分のときに聴いて、元気を貰っている。世の中が大変になっていくことと、自分が楽しくいるということは相反しない。やっぱ音楽っていいよね。

早く暖かくならないかな・・・。

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