砂糖のグローバル史
砂糖のグローバル史
先日、国立新美術館「テート美術館展」に行ってきた。ターナーなどの作品等が展示されていた。カンディンスキーも1点あった。テート美術館は実際にはテートギャラリー、或いは単にテートと呼ばれ、英国に幾つか存在。
これは製糖業・特に角砂糖の特許買収で財を成したヘンリー・テートが自身のイギリス同時代絵画のコレクションをナショナル・ギャラリーに寄贈しようとしたことが発端でできたものである。そこで今回は砂糖のグローバル史について少し書きたい。見出しの画像はTate&Lyleの砂糖である。Tate&Lyleの砂糖は英国王室御用達。
1. 砂糖前史
人類は植物(果実、花の蜜、木の葉など)で甘味を味わっていたであろう。しかし純水甘味として最初に手に入れたのは野生の蜂蜜だと言われている。実際にスペインで見つかった壁画(岩絵)に人間が蜂蜜を取りに崖を登っている絵がある(BC7000頃のもの)。その後、養蜂を発見したと思われる。
2.砂糖キビ・甘藷の起源
砂糖キビ(日本では甘藷といった)の原産がどこかの説は幾つかある。ニューギニアではないかという節が有力のようだ。そこからインド~西アジア・エジプトへ、或いは中国などへ、更にポリネシア~ハワイまで伝搬(ハワイは遅くAD11C頃)した。
3. 砂糖の初代史
砂糖キビが文献に現れるのはインドにインド・アーリア人が入って来て以降のバラモン教・ヴェーダ時代である。砂糖キビはイクシュと呼ばれた。絞って固形の粗糖にしたものをサンスクリット語で砂利という意の「Sakara」(シャルカラ)といい、同じ印欧語やアラビア語の砂糖の語源になっている(英語:sugar、独語:Zucker、アラビア語:Sukkar等)。また、この粗糖の破片を意味するサンスクリット語の「khanda」(カンダ)がキャンディ(candy)の語源である。人口甘味料のサッカリンは「Sakara」から命名されたそうである。砂糖キビの植物分類種名はサッカラム・XXXXXXXXXのようにサッカラムがつくので、これも同じだろう。
4. 砂糖の用途の変遷
細かいことを捨象すれば、アジアでも西欧でも以下のように用途は変遷している(国により多少の順不動はある)
① 儀式
インドでは神の供物で、ミルク・チーズ・バター・ハチミツ・サトウキビの5種を使用。
② 薬(この役目は非常に重要視された)
③ 香辛料
④ 富の象徴としての装飾品(彫像。砂糖細工)
王族や富俗な人々は砂糖で造形物を作った。ウェディングケーキ原型とも。
⑤ 茶、コーヒー、チョコレートに入れて飲むための甘味料
当初の黒砂糖から現在の精製糖のような白い砂糖の製造法がどこで確立したのかの定説はなさそう乍らエジプト説が有力の模様。中国の元でエジプト人から白砂糖の作り方を学んだとマルコ・ポーロは書いている。
5.ヨーロッパと砂糖キビとの出会い
「甘い葦」としてハーカマニュシュ朝(=アケメネス朝)ペルシア人が先にインドで見つけて広まったのか、アレクサンドロス大王の副将ネアルコスがインドで見つけたのか?ながら、欧州の本格的な砂糖との出会いは十字軍の遠征でイスラム勢力経由である(砂糖に限らず当時欧州より遥かに先進的なイスラムの文明・文化が伝わる)。イスラム社会ではすでに奴隷(といってもアフリカではない)を使った砂糖キビプランテーションをやっていたようである。
6.中南米での世界商品としての出発はコロンブスから
ポルトガルとスペインは大西洋の島々(マデイラ諸島・アゾレス諸島、カナリア諸島)でアフリカ人奴隷を使った砂糖キビプランテーションを先行してやっていた。それがやがて中米(カリブ海の島々)やブラジルでアフリカ人奴隷を使う「地獄労働」と言われた大規模プランテーションを始めたきっかけはコロンブスのようである。2回目の航海でカナリア諸島から砂糖キビをエスパニューラ島(ハイチ・ドミニカ)持ち込んだからである。
この後は、ポルトガル、オランダ、英国、フランスなどが入り乱れて砂糖の国際市場を争い、また、大量のアフリカ人奴隷を移住させて酷使した。アフリカ人奴隷を必要としたのは欧州人が持ち込んだ疫病で原住民が激減(一部滅亡)したからである。
(市場争い・戦争はルイジアナやカナダのスペイン・英・仏間の領土移譲・交換問題にまで及んでいる)
7.砂糖の大量消費の始まり三大飲みものから
当初は貴重品で上流階級でしか使っていなかった砂糖が大量消費時代になったのは、3大飲み物である茶(紅茶)、コーヒー、チョコレート(飲み物としてのチョコレート)が大衆に広まったことにある。中でも英国は産業革命で悲惨な(暗黒)の労働環境にあった人々の栄養剤として重要だった(ティーブレーク、又は夕食としてのハイ・ティー)。これについては以前書いた「紅茶のミニ歴史」を参照願いたい。
https://note.com/kengoken21go/n/nbfc5464d90fc
砂糖の精製(精白糖、角砂糖の製造)は中南米のプランテーションでは行わす、欧州(リヴァプールなど)で行われていた。巨万の富を気付いた業者が多く、冒頭のヘンリー・テートもその一人である。
【以下は補足である】
8.奴隷制廃止以降の砂糖キビプランテーション
アフリカからの奴隷が使えなくなって以降、アジア人(インド人、中国人、日本人など)がカリブ海、ブラジル、ハワイ、太平洋の島々、南アフリカなどに形式上は年季奉公のとして労働移住した。筆者は数十年まえにフィジーに行ったことがあり、フィジー人とインド人の人口比がほぼ五分五分なのに驚いた。これも英国が雇って住み着いたインド人が多いからだろう(因みにお土産にカレー粉を買って帰った)。また、南アフリカのナタールに弁護士としていたガンディーは砂糖キビ労働者の待遇・差別改善に関わり、それが後のインド独立運動の方式に繋がっているという話もある。
9.甜菜(砂糖大根)
砂糖キビ(甘藷)の代替としての寒冷地野菜の甜菜は、1700年代の終わり頃に製法が確立してプロイセン王やナポレオンが甜菜糖生産を奨励した。日本も北海道などで栽培されているのは周知のとおり。現在は国により砂糖キビから作る砂糖と甜菜から作る砂糖の割合はマチマチ。世界全体では砂糖キビの割合が多いようだ(人口甘味料は慮外)。
10.日本の砂糖
日本にいつ頃砂糖が伝わったかの記録はない。隋か唐のころでないかと思われている。後に南蛮貿易でポルトガルやオランダから砂糖や金平糖が入ってきても庶民には縁遠い存在であった。江戸時代に吉宗の甘藷栽培奨励、及び薩摩藩が島民に苛烈な生活を強いた(搾取といってよい)奄美大島での砂糖キビ栽培はあったが、本格的な量として砂糖が作れるようになったのは台湾を植民地化してプランテーション農業をしてからである。
11. 三角貿易の虚実
世界史の教科書にも出てくる三角貿易は、一般には「欧州、特にイギリスのリヴァプールやブリストル等から出港した船が工業製品をアフリカに持ってゆき、アフリカから黒人奴隷を積み込んで西インド諸島や北アメリカ大陸に運び、そこでタバコや綿花、砂糖などの産物を積み込んで欧州(特にイギリス)に帰ってくるもの」とされている。実際はアフリカの奴隷商人が一番欲していたのはインドの綿布である。インドの布を買うには銀が必要。銀と
言えば当時スペインが中南米に銀山を保有し、その銀を積みマニラでアジア製品を買っていた。そこで英・仏・オランダなどの海賊はスペイン船を襲って銀を分捕り綿布を買うためインドに向かっていた。従って単純な三角形では成り立たたない。
三角貿易には、英国の産業革命による綿製品業の発展に伴い、英国の綿製品をインドへ、インドのアヘンを中国に、中国の茶を英国にというのもある。
但し、茶の輸入元は中国からインドへ変わっていく。