終わりは始まり:塩野七生さんの歴史エッセイ
塩野七生さんの歴史エッセイで最後に残しておいた(博多流に言えば「とっといた」)『ギリシア人の物語』を読んだ時に思ったことを書く。Essayというと小論というイメージなので、塩野さんの大著がエッセイというのは変な気もするけれど。ご本人が最終巻のあと書きで以下のようなことを書いている(抜粋)。
「「歴史エッセイ」はこの巻を最後に終えることに決めた。歴史エッセイの全作品を図にしてみたので見て下さい。グラツィエ・ミッレ(本当にありがとう)」
全作品図は以下を参照。
https://drive.google.com/file/d/1w_XB-0_XJLzp7l3bUf3QiuN5LhEoqiad/view?usp=sharing
塩野さんの書籍、特に『ローマ人の物語』は、著名人(経営者・学者等)が「私の愛読書」としてよくあげている。その中で『終わりの始まり』は政治家などもよく使う一番有名なタイトルであろう。
この言葉はチャーチルのものとされるが、塩野さんが使わなければこれほど有名になることはなかったと思う。
参考:チャーチルの演説
今は終わりではない。これは終わりの始まりですらない。しかしあるいは、始まりの終わりかもしれない。
"Now this is not the end. It is not even the beginning of the end. But it is, perhaps, the end of the beginning."
1942年11月10日、北アフリカ戦線の第二次エル・アラメイン会戦でイギリス軍がドイツアフリカ軍団を撃破した後の演説。チャーチルは文筆家でもある。『第二次世界大戦回顧録』を部分的に読んだことがある。
塩野女史の文章は面白く、且つ、冗長さがなく理路整然としているので、非常に読み易いので速く読むことができる。読み易い作家と読み辛い作家の差は歴然としているのは多くの人が実感しているだろう。これはどの分野の書籍でも言える。
本については、何人かの方(当然、読み易いものを書く方)が「最初の15-20ページまで読んでも面白くなければ読むのを止めればいい」と言っている。最近そうするようになった。以前は折角購入した本を読み終えずに終わるのは勿体ないという意識があったが、数年前から可能な限り図書館で借りて読むようになったのが大きい。
さて、塩野さんに戻ると、歴史エッセイ以外のものは今後も執筆されるとしても、もう歴史エッセイは読めないと思うと残念である。欧州、主に地中海世界を書いて来られものの掉尾を飾るテーマは一番歴史の古い、つまり「始まり」の古代ギリシアとしたのは流石だと思う。このブログのタイトルを「終わりは始まり」としたのはその為である。
塩野さんは「カエサルは私の永遠の恋人」と公言をしているようカエサルをベタ褒めであるのは分かるとして、『ギリシア人の物語』ではアレクサンドロスを同じようにベタ褒めしていると思う。尚、同女史はカエサル『ガリア戦記』を簡潔明瞭な名文の典型といっている。読んでその通りだと思った。
私は好きな作家を見つけると連続して読む傾向があるので、読むものがなくのなって困ることが多い。例えばシェイクスピアの戯曲、アガサ・クリスティ、須賀敦子、星真一(星の後年のつまらなくなった作品は除く)など。
塩野さんに匹敵する歴史家が誰かいるか、今のところ思いつかない。以前書いたよう歴史学者・歴史家・歴史作家は違う。
https://lineblog.me/kengoken21go/archives/2718938.html
歴史作家ならば吉川英治や司馬遼太郎など居る。司馬氏は歴史エッセイも書いているけれどちょっと偏向している。何れにしても、塩野さんがテーマにしている分野では二番煎じというか、あれ以上のものを書くのは難しいだろうから誰も書く気がしないように思える。
蛇足:
シェイクスピアの戯曲は福田恆存、小田島雄志など多くの方が翻訳しているが松岡和子訳が一番読み易い(小田島さんは私の大学教養時代、同じキャンパスで教官をしていたはず。然しながら当時は名前も知らず)。
シェイクスピアの戯曲は、英語版そのものが複数あること、当時の社会情勢・当時の常識を知悉しておく必要があること、矢鱈と多い隠喩・隠語の意味をどう解釈するかもあり翻訳の違いが出る。理想は英語で読むことだろう。そうでないと韻(rhyme)を踏んでいるのかが分からない。
因みに、マクベスだけは大学教養時代の自由参加セミナーで英語版のものを読んだ。日本でシェイクスピアを演じている役者は英語版を読んでない人が大半であろう。