日本人に馴染みのある?・関係のある遊牧民国家のトリビア②
日本人に馴染みのある?・関係のある遊牧民国家のトリビア②
トリビアに入る前に一言。日本に「三国一の花嫁」という言葉がある。この三国とは日本、中国(唐土)、インド(天竺)のことである。嘗ての日本人の世界観、アジア感を表しているという見方も成り立つ。
1.騎馬の歴史と日本の馬・・日本の馬のルーツはモンゴル?
以前書いたよう世界で初めての遊牧騎馬社会を造ったのは印欧語族のアーリア系民族(ウクライナ平原~中央アジア)である。アジア系の遊牧騎馬社会はそれより数百年(約4百年程度か)遅い。
https://drive.google.com/file/d/11mRJ-ljEpGnkMtbQ8Tx8UTX23co6Gw1L/view?usp=share_link
馬に乗る際、手綱とそれを馬の口に繋ぐための銜(ハミ)、及び鞍と鐙を使い、通常馬の蹄に蹄鉄を打つ。これらの発明は大凡以下のように考えられている。
①手綱と銜・・アーリア系民族が発明(ウクライナ付近?)
②鐙と鞍・・騎乗が旨くない農耕民のため中国(漢人)が発明。鞍は鐙を付けるために腹帯と共に必要になった模様(古代インド発祥説などもある)
③蹄鉄・・欧州で発明(メソポタミア発祥説などもある)
現在のモンゴルで、若者の成人儀式で裸馬に乗って馬追いをしている画像を見てもわかるよう、騎馬が得意な遊牧民は鞍・鐙がなくても十分に馬を乗りこなせた。また、柔らかい草原を走り換え馬も引き連れていたので蹄鉄も不要であった。このため、騎馬遊牧地域以外で鐙と鞍と蹄鉄が発明されたようだ。
日本原生の馬が居た証拠は見つかっておらず、中国大陸由来ると考えられている。因みに邪馬台国論争・卑弥呼論争の元になっている魏志倭人伝に「倭国に馬はいない」と書いてある(最もここでいう倭国は九州、又は畿内以西のこと)。古墳周辺等で見つかる馬具、馬の土偶の馬具は魏晋南北朝時代の北中国ものと同じ。日本に持ち込まれた馬はモンゴル地域の産と言われている。
<補足>
②と③には諸説あり。鞍には軽微な敷物レベル、軟式鞍、硬式鞍(木を使ったもの)とあり、ここでは硬式鞍をイメージしている。蹉跌についても柔らかい皮や布のものから今の金属レベルまであり、上記は金属レベルのものを想定している。
2.日本でのアジア人遊牧民国家の民族分類
アジアの黄色人種/モンゴロイド・・アフロアジア(アラブなど)、イラン・インド系、マレー系を除く)・・の遊牧民国家について、日本ではモンゴル系か突厥(テュルク)系=トルコ系か、或いはツングース系かという分類をよくする。例えば、ウイグルは突厥=トルコ系、満州人=清はツングース系など。しかし、モンゴルや突厥が歴史に登場する前からいた人々に当て嵌めるのは適切ではないのは勿論、それ以降に登場した国も多様な民族、或いは複雑な混血をした人々からなるので安易に分類はできない。日本でよく知られる匈奴・鮮卑・契丹などがそうである。匈奴は国家(=帝国)ではあるが匈奴民族はいないとも言われる。ゲルマン民族の大移動のトリガーとなったフン族(アッティラ王がで有名)は恐らく匈奴から派生したと思われるものの、「フン民族」がといえるものが居たかも疑問視とされている。蛇足乍らハンガリーは「フンの土地」という「フンガリア」が国名の由来であるがマジャール人の国なのでフンの末裔ではない(ウラル語族なのでしばしばアジア系と勘違いされる)。
3.韃靼/タタール
オペラ『イーゴリ公』の「韃靼人の踊り」、「韃靼蕎麦」、ロシア等でいう「タタールのくびき」、更にはロシア文学にもよく登場するので、韃靼・タタールは日本人にも馴染み深い。タタールはロシア、欧州でモンゴルの総称として使われるが、本来はモンゴル高原にいた一部族。同高原はモンゴル部(チンギス・ハーン出身部)、オイラト部、ケレイト部、タタル部、メルキト部などに分かれていた(韃靼・タタールはタタル由来)。タタルは古突厥語(古テュルク語)で本来「他の人々」という意味であったが、欧州では東から来た遊牧民を表す言葉としてモンゴルという言葉より先に広まった。モンゴルの(或いは遊牧民)の総称となったのは、古代ギリシャで奈落や地獄を指したタルタロス(タルタル)に擬したという説が有力である。タルタルステーキの語源もそうだと言われている(更にはタルタルソースも?)。韃靼は中国から見た蔑称。前期2.で述べたようタタルが突厥系かモンゴル系かを議論するのは余り意味がない。
4.日本人騎馬民族説と去勢・宦官
今ではもう忘れられてきた&否定されているが、東大の歴史学者(高校世界史の教科書も執筆)で古代オリエント博物館初代館長だった故江上波夫氏が唱えた大和政権「騎馬民族征服王朝説」があった。江上さんは諧謔が好きな方で心底そう思っていたのか分からない。今は中国以外では使わない「世界四大文明」という用語も「面白いので自分が発案した」と話されていたらしい。同説の否定の根拠の一つに家畜の去勢がある。去勢が日本に入って来たのは明治以降のようで、騎馬民族が征服していたならば去勢のことを知らないはずはなく矛盾するということである。因みに出口治明氏が「日本に宦官がいなかったのは騎馬・遊牧社会ではなかったから」といういい加減なことを書いていた。宦官は騎馬・遊牧社会以外でも古代より存在したことが判明しており正しくない。
5.意外と知られていない日本兵のモンゴル抑留
第二次世界大戦終戦間際にソ連が対日本参戦し、捕虜のシベリア抑留等で多くの日本人が塗炭の苦しみ(死者多数)を味わったことは今でも忘れられていないであろう。この時に現モンゴル人民共和国も同じく対日参戦。日本人がモンゴルに抑留され国際法を無視した強制労働をさせられたことは意外と知られていないのではないか(シベリア抑留での死者数に遠く及ばずとしても死者も少なからず出ている)。主に首都ウランバートルの都市機能整備・建設に従事させられた。モンゴルに言わせればハルハ河戦争=ノモンハン事件の賠償ということのようである。ソ連と違いこの件でモンゴル共和国を非難するつもりはないが、知らないのは先人に申し訳ないと思う次第。今の大相撲はモンゴル人民共和国出身者に席捲されているのは周知のとおり。
<補足>
内モンゴル:旧チャハルと呼ばれた地域。現在は中華人民共和国の自治区。日本軍が「満蒙(満州+蒙古)」と呼んだ時の「蒙」は内モンゴルのこと
外モンゴル:旧ハルハと呼ばれた地域。現在はモンゴル人民共和国。
6.「蒼き狼」とは関係ないチンギス・ハーン
チンギス・ハーンはよく「蒼き狼」に関連づけられるが実際には関係ない。モンゴル伝説では、(ボルテ色の雄狼)とホワイ・マラル(ホワイ色の牝鹿)の夫婦がバイカル湖を渡ってモンゴルに来たのが始祖とされている。このボルテ・チノが「蒼き狼」のことだが、チンギス・ハーンがこの子孫かというと血縁はない。ボルテ・チノの末裔とされる男子の寡婦が恰もイエスの誕生の如く(性行為ではなく)天窓から差し込んだ光に感じて生まれた男子の子孫がチンギス・ハーンとされているからである。
参考の為、色について。日本人は「蒼き」狼というと青・青緑色を連想するのではないかと思う。実際は以下のとおり(「蒼き」という日本語訳は敢えて変えなくいいという意見が多い)。
元の歴史を書いた『元朝秘史』でボルテ・チノのボルテに「蒼色的」と言う中国語訳をあてた。チノは狼のこと(→日本で「蒼き狼」なった)。これ自体は間違いではない。但し、モンゴル語のボルテは「白または白っぽい色に混じった深い鼠色の斑点」「「斑,ぶち,斑点」という意味でとのこと。中国語の蒼色も複数の色合いを表し斑白やゴマ塩という意味があり、白髪交じりの頭髪の形容詞でもある。
蛇足:
日本に「蒼き狼と白き牝鹿」というゲームがあるのを知った。白き牝鹿がホワイ・マラル(コワイ・マラルともいう)のことであれば黄色い牝鹿が正しいようだ(ホワイは黄色という意味の模様。マラルは牝鹿)。古代の色の表現を現代に当てはめるのは簡単ではない。