no. 1 最初の記憶ー幼稚園(無料ver.)

最初の記憶,家庭のハナシ

私の人生の中で最初の記憶は,弟が生まれる前の晩である.小さな産院の夜にネオンが見える病室で,私は母にレーズンをあげた.白いプラスチックの容器に入れて渡した光景を,今でも思い浮かべることができる.弟とは年子だが歳が約1年10ヶ月離れており,従って当時私は同じく1歳10ヶ月(正確には10ヶ月と2日)だったことになる.立ち上がるのも話すのも私はとにかく早い子供だったそうで,法事などで親戚が集まる際,幼稚園にも通っていない幼児が電気式蚊取り線香を設置して回ったりしているものだから驚かれていたようである.

私は二人兄弟で,上に紹介した弟がいるのみである.この表現はどうかと思うが,二人兄弟にした理由について両親の言ったままを書くと「一人だと可哀想だから」だそうだ.この理由自体はともかく,この選択は後の私に大きな財産となって返ってきた.まさか同じ大学,同じ職種につき,良き相談相手となってくれるなどとは,両親も予想もしていなかっただろう.なお,父は3人目を望んだそうだが,母が渋ったとのこと.これも,自分が妻の出産に付き添った経験を経て父となった今ならあり得ることだなと思う.

少し脱線しそうなので話の時系列を戻そう.母は父と結婚するにあたって仕事を辞めており,私が生まれた時点で専業主婦状態であった.従って,私たち兄弟は保育園に通うことなく4歳まで母の手によって自宅で育てられた.この自宅というのは父が若い頃に建てた一軒家であり,2階の無い平屋であるものの庭と物置,さらに裏山までついた比較的広いものであった.物置と呼んでいる部分も成り行き上そのような役割になっているだけであり,元々は父方の祖母が住んでいた瓦屋根の比較的しっかりとした建物である.ただ,トイレが汲み取り式だったので友人が来た時など少し恥ずかしかった.なお,私は父が40歳の時の子供であり,生まれた段階で祖父母3人がすでに亡くなっていた.存命だったのは京都に住む母方の祖母のみであり,のちに物置に格下げされる建物に住んでいた父方の祖母とは会ったことがない.ただ,父の兄姉(つまり私の叔父叔母)が近所に多く住んでいたことから,特に寂しい思いをすることもなかった.さてこの自宅には動物図鑑などの教材が比較的充実しており,私はそれらに囲まれ好きなものを読んで育った.特にお気に入りだったものの一つが恐竜図鑑で,すぐに読破して次をねだっていた.また,もう一つのお気に入りがブロック教材である.ジョイントやタイヤなどのパーツが無数にあり,これらを組み合わせて好きなものを作るという,今でいう知育系の教材である.弟などに言わせると,このブロックで私はデカいものばかり作っていたそうだ.私が貧乏で苦労した話はのちに語ることになるが,なんとこのブロックは一式の値段が30万円ほどだったそうである.当時は景気が良く,父も体が丈夫で稼いでいたとか.

幼稚園時代

大人ぶった幼稚園児はサンタを信じない

そんな形で自宅育児の期間を過ごし,5歳になる年から2年間幼稚園に通った.幼稚園に通い始めることに特に苦労を感じることもなく,私はただただ楽しんでいたように思う.砂遊びや鬼ごっこという普通の遊びも好きであったが,特に好きだったのがお絵描きである.先生から大きな模造紙をもらい,それに絵の具で恐竜の骨格標本の絵を描くのだ.当時はそれが楽しくてたまらなかったが,先生からしたら奇妙な園児だったかもしれない.だって,5歳児が多数の恐竜の名前のみならず,三畳紀,ジュラ紀,白亜紀といった古代の年号,さらにはある程度正確な恐竜の骨格を把握しているのだから.通常の5歳児は『パキケファロサウルス』なんて知らないと思う.これは完全に自宅にあった図鑑の影響なのだが,そのおかげで私は子供らしからぬ大人びた趣味と先生方からの関心を引くことに成功したとも考えられる.ただし,この少し大人びた性格が災いしたこともあったので,代表的な事柄を2つ紹介したい.まず1つ目が,お遊戯をやらない事件,である.みんなで音楽に合わせて踊るなどの出し物は運動会など行事の目玉であるが,振り付けの最後にお尻を突き出してプリっ!みたいなモノがあるともうできない.技術的に難しいのではなく,振り付けがダサく恥ずかしくてやれないのである.ある時「やりたくない!」と意見を通していたら,いつの間にか全員の振り付けが別のものに変わっていた.勝利である.その後,別の出し物の振り付けがまたまた恥ずかしかったので,同じように「やりたくない!」と自分の意見を通していた.今回も振り付けが変わるかと思いきや,今度は園長先生がブチギレて怒鳴られたのを覚えている.「やらなあかん!わがまま言わないの!」そんな感じだったと思う.当時は園長先生が怖くて泣いてしまったが,おそらくクラス担当の先生が私の態度に困って相談し,子供に怒鳴るというやりたくもない損な役を園長が引き受けたのだと思う.そういう意味では,本当に悪いことをしたなと今では思っている.2つ目は,サンタクロースいない事件,である.私の父は自分の子供を大人扱いして育てる,という工夫を心がけていたそうで,自動車を「ブーブー」と呼ぶ,人が死んだら天国に行くと説明する,みたいな子供騙しを避けていたようである(と,本人が言っていた).このように書くと聞こえは良いが,この男,サンタクロースは嘘で,その正体はおもちゃ屋帰りの親である,と5歳の子供に吹き込んでいたのである.子供とは何を隠そう私なわけで,この時限爆弾は案の定12月に炸裂する.12月24日が近づくと,友達がサンタにねだるプレゼントについて幼稚園で話し始める.そこでこの妙に大人ぶった子供が言うのである.「サンタなんかいないよ.君のお父さんとお母さんが買ったプレゼントを枕元に置いてるだけだよ」.そして,私は当時,サンタの存在を信じていた仲の良い友達と喧嘩をしてしまった.「いないよ」「いるよ」合戦である.面白おかしく書いたが,これは幼稚園始まって以来の大問題(たぶん)に発展した.多くの家庭は,子供の無尽蔵かつ純真無垢なアレ欲しい的な願いをサンタという年1回の緩衝材越しに受け止め,ファンシーな願いを叶えてやるという家族イベントをやるのを楽しみにしているのである.大人になってもサンタの存在を主張している人などもちろんおらず,実はサンタを信じることの弊害などはないのだ.実際,その子供が成長して親になった時に同じイベントを通して家庭を盛り上げてきたわけで,要はバトンの受け渡しが世代間で行われるのである.そんな一大イベントを,我が家の勝手な背伸び教育のせいでクラス全員から奪うというのは確かに大反省ものである.うちの両親は幼稚園の先生に怒られたことで態度を180°変更,弟にはサンタの存在を信じさせるべくこっそりとおもちゃを買い,寝静まった後で枕元にプレゼントとして置いたのであった.ちなみに,両親は私の再洗脳には失敗し,共に弟を騙す方に回れとけしかけてきた.「弟はまだ小さいから,言っちゃダメよ」だって,ずりぃ.なお,先のサンタクロースの一件で私と喧嘩をしたのは YU君という人物であった.もちろん,彼はサンタ信じる派,私は信じない派である.YU君とはその後,中学までずっと同じ学校に通うことになるのだが,大人になった今でも仲良くしている.

動物に襲われるひさかわと物理的に復習する母

さて,そんな形で楽しく過ごしていた幼稚園時代であるが,実は苦手なものもできた.動物,特に犬である.当時,向かいの家に「ジョン」という妙に凶暴な犬が飼われていた.犬が凶暴なだけならまだ良いのだが,ここの飼い主の婆さんがちょっとアレで,基本放し飼いなのである.クリーニング店の女性が洋服の返却に訪れた際ジョンに噛まれたことがあるのだが,その時の婆さんの言葉は「どうもない,どうもない」だったそうだ.このほかにも近所に何匹か犬が飼われており,そしてその多くが私に吠えるのである.噛まれたことはないが,追いかけ回されることはしょっちゅうであった.だって放し飼いなんだもん.また,どういうわけか馬にも嫌われたことがある.ある日,幼稚園の催しで移動動物園がやってきた.さまざまな動物が運ばれてきて専門家の指導のもと園児と触れ合うというイベントなのだが,その中に馬がいたのである.ポニーではなく,ガチの.基本的には馬に乗って記念撮影をするだけのことなのだが,どういうわけか私の番になって馬が突然大暴れし,私を踏んづけ走り去るという事件が起こった.この時,あまりの衝撃に私は泣いてしまった.当時の私の体重は20 kgもなかったと思うが,馬はおそらく100 kgでは効かない巨体であろう.そんなもんに背中を踏まれたら,痛いわびっくりするわだったのだと思う.その後のことはあまり覚えていないのだが,先生方に一通り苦情を捲(まく)し立ててから徒歩で帰宅しようとし,なんとか慰められ,最後には馬の背に乗って記念撮影をした(病院に連れて行けよ).ということで馬とは和解しマブとなったのだが,犬には負けっぱなしである.相変わらず首輪に紐をつける気もない飼い主たちになすすべもなく,すっかり犬が苦手になってしまった.さて,放し飼いの犬のせいで迂闊に外を出歩けないような状態が続くと思われたが,そのような日々は唐突に終わりを迎える.ある日突然,路上から犬が姿を消したのだ.あの放し飼い主義者が,ジョンをつなぐようになったのである.どうしてそんな奇妙なことが起こったのかというと,…

(無料版ではカットしました)

さて,当面の危険は去ったわけであるが,私はすっかり犬が苦手になってしまった.幼少期のこの体験はかなり尾を引き,ポメラニアンのような小型犬にすらビビってしまう状態が15歳ごろまで続いたように思う.しかし,自分の体が成長し筋力が増してくると,今度は仕返ししたい気持ちが湧いてきた.襲ってくる犬がいたら振り回して頭を地面に叩きつけてやろうと思っているのだが,どういうわけか大人になった私は犬に懐かれてしまってしょうがない.別に可愛いなどとはこれっぽっちも思っていないが,空気を読んでナデナデしてやっている.あくまで大人として社会に溶け込むための仮初の対応であることをここに強く主張し,上記をあえて逆の意味にとるような行為は人の道に反するものであることを強調しておく.

暴れる同級生とひさかわの受難

ここで一旦話を幼稚園に戻し,同級生のA君という子供の話を追加しておきたい.彼は同級生の中でも一番体が大きく,力が強い子だった.そして,持て余した力故なのかどうかはわからないのだが,大きめの道具を手に取っては振り回す,ちょっと変わった子でもあったのである.先生方の隙を見て掃除用具箱からホウキを取り出して振り回す,縄状のものを見つけて振り回すといった感じである.なお,このホウキを振り回す姿は他の学年の子供達の印象にも強く残っているらしく,A君=ホウキ振り回す怖い人,のようなことが大人になってからも下の学年の子達から聞こえてくる.ある時,砂場で遊んでいた私のそばにA君がいた.今思えば何が楽しいのかよくわからないが,砂場にスコップで穴を掘るのは当時のメジャーな遊びの一つだったように思う.その砂場で使うスコップには片手で使う小さなものもあるが,木製のロッドと先端の鉄製シャベル部からなる大きなものも用意されていた.そう,A君が大好きなオオモノである.案の定,砂場で大型スコップを手にしたA君はこの獲物を振り回して大暴れを始め,スコップの先端が私の顔に激突する事件が発生した.当たった位置が眼球から数センチ逸れた眉の上だったことは幸運であったが,やはりそれなりの怪我になってしまい大騒ぎとなった.特に誰かから謝罪を受けた覚えはないのだが,恐らく親レベルではそれなりのやり取りがあったのではないだろうかと,今になって推察している.なお,このA君ともその後中学までずっと同じ学校ということになるのだが,その間にもう一度,頭から出血させられる怪我を負わされることになる.その後の言語能力の発達具合や衝動を抑えられず度々問題を起こす姿など,私のみならず同級生たちは随分と振り回されたものである.もちろん幼稚園に通っていた当時は気づかなかったが,A君は,いわゆる特別なサポートの対象になるような子だったと思う.なお,誤解なきように申し添えるが,私はA君と比較的仲が良かったと自認している.このあと発生した流血騒動も,恐らく本人の意図するところではなくすぐに謝っており,私も血を流しながらヘラヘラと笑って許していた.

幼稚園時代の終わり

などとにぎやかな日々を過ごす間に私の幼稚園生時代は過ぎていき,無事に卒園となった.卒園式の日は車で帰ったのだが,幼稚園から引き上げたお道具箱を抱えながら両親と会話した記憶が残っている.「明日から小学校というところに通うんだよ」ということを言われたように覚えており,「いやだなぁ」と返した気がする.春休みもなしにいきなり小学校通いというのは少し違和感があるので,恐らく少し記憶違いをしているのだろう.「明日から」の部分が間違っている可能性が高い.とにかく,犬に吠えられ,馬に踏まれ,サンタなんかいないと吹聴し,同級生にスコップで殴られるなどいくつかの事件を経験した,今思えばエキサイティングな幼稚園生活が終わったのであった.

K. HISAKAWA

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