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村田沙耶香著『コンビニ人間』を詳しく読む(前半p86まで)

このnoteでは、上に挙げた作品をひたすら細かく読んでいくことにする。ページ数は文庫版の『コンビニ人間』に倣った。



物語の大まかな解釈について


 この物語は「コンビニのマニュアル」で18歳から36歳までを生きてきた主人公が、ふとした出会いをきっかけに「ムラ社会のマニュアル」の存在に気付き、家族を安心させるためにそちらのマニュアルを選択しようとするも、最後には「コンビニのマニュアル」を改めて選択し直す、という話だ。

(p7)コンビニ店員の日常

  一人称視点で書かれることの意味をまず連想した。この作品の書き出しで、僕らは一気にコンビニ店員の世界に引き込まれて行くことになる。これがもし、三人称や二人称で書かれていたとしたら、ここまで引き込まれることはなかっただろうし、後々やってくる様々な違和感を、違和感として認識できなかったんじゃないかな?
 世界の部品として、正常に機能しているということがどのようなことなのか、とても強く印象付けてくれる。そして、これは後に出てくる白羽さんとの対比にもなるわけだが、、、


(p11)主人公の過去

 まず、コンビニ店員として「生まれる」とわざわざ書いているのには理由がある。そのことを頭の片隅に置いて、今後を読み進めて欲しい。
 また、それ以外にもこの場面では実に様々な物事を考えさせられる。それをひとまとめに書くのは困難だが、書いてみよう。


 まず、ここで分かることは、主人公が「ちょっと変わっている」ということだ。何が変わっているのかを細かく分析するために、人の主観について分析する時に気を付けるべき三大因子(視座、視野、視点)について考えてみようかと思う。


 主人公は常に、「いい子」であろうとしている。主人公は「家族を喜ばせたい」し、「家族に嫌な思いをさせたくない」という視座に立つ。ここは何らおかしなことではない。普通だ。主人公のおかしなところは視野と視点だ。この場面を読み通していただければ分かると思うが、主人公は何が「焦点」で何が「盲点」なのか、が結構ずれている。先生を黙らせるためにスカートをおろしたり、喧嘩を止めるためにスコップで殴ったり、父親を喜ばせるために小鳥の死骸を焼き鳥にしようとしたり。


 ここで気を付けるべきは、主人公にはちゃんと「共感性」があるということだ。主人公は自分自身の感覚よりもむしろ、他者の表情を元に自身の行動を解釈している。すなわち、他者の表情を読み取るだけの共感性がある、ということを意味している。その上で、家族を喜ばせることが「本意」であり、悲しませることが「不本意」なのだ。


 ポール・エクマンという、表情分析学で有名な学者がいる。Lie to meというタイトルでドラマ化もされた。実際に僕は彼の著作に目を通してみたが、その本のほとんど全てが、感情そのものへの考察で占められている。(表情の分析というよりも)それくらい、人が表情を読み取るには感情そのものへの理解が必要なのだ。その意味で、この小説の主人公は他者の感情をそれなりには理解できているはずだ、と考えられる。


 これまでをまとめると、幼少時の主人公は「ちょっとおかしなところ」があるけれど、根本的には「普通」の領域を逸脱しているわけではない、と言えるのではないだろうか?
 もちろん、周囲の人たちは何とかして主人公のあり方を「治療」せねばとあくせくするのだが、、、


 また、この部分を読み通した時、僕は瞬時に「暗殺阻止を命じられたロボットの話」を思い出した。要人の護衛を任されたロボットが要人を射殺し、「これで暗殺は不可能になった」と主張する話だ。何となく、主人公はこのロボットに似ているように思う。


(p18)コンビニと、コンビニ店員としての主人公の誕生

(ここでまず、気になったのは、なぜ機械的なあり方をしている主人公がアルバイトに「興味を持つ」ことがあるのか、だ。仕送り等も十分だったようなので、普通に考えれば、興味を持たない気がする。後に主人公がコンビニバイト以外のもの全てに興味を持つことがなかったように。ただ、どんな人間も何かには興味を持たないといけない、という風に読めるのかもしれない。そして、この主人公の場合は、コンビニでその興味の容量が埋まってしまったのだろうか。
 あるいは、ただ仕送りをもらうことを「悪いこと」のように思っていたのだろうか?)

 このシーンは、漠然と生きてきた主人公が初めて「コンビニのマニュアル」という明文化されたマニュアルに遭遇するという点で重要だ。
 正しい表情や、声の出し方を明確に教わることになる。

 その結果、主人公は生まれて初めて、自分がこの世界の「正常な部品」として機能していることを実感できる。そのことを「コンビニ店員として生まれた」と表現する。

 コンビニ自体もまた、この瞬間、openし、ある意味、生まれたわけだ。それから24時間365日、稼働を続ける姿が、生物そのものに重ね合わされている。細胞(店員)の入れ替わりはあるが、全体としては常に機能し続けている。主人公はその一部であり、その一部であることによって、正常な人間であることができる、と考えている。


(p27)コンビニ店員の舞台裏にて

 コンビニ店員のアルバイト仲間とのやりとりが印象的だ。主人公が「店員」ではなく「普通の人間」であらねばならない舞台裏があるからだ。

 その場所で、主人公は「普通の人間」を演じるために、バレない程度に周囲の人間の特徴を摂取している。そして、それらの素材を場面に応じて使い分けている。

 人工知能について少しでもかじったことのある人なら、「ディープラーニング」に似ている、とピンと来るはずだ。主人公は30代女性としてふさわしいあり方を教師データとし、大量に取り入れることで「それらしい」振る舞いを学習している。

 恐ろしい、と思うとすれば、主人公が”感情”すらも、他者から摂取しようとしているところだ。正確にいえば、”感情的な人間の姿”を摂取し、それを元にそれらしい振る舞いをする。

(p36)休日、ミホと過ごす

 ”同年代の普通の女性像”を摂取する場として、主人公は同窓会で遭遇した学生時代の友人に会うことにしている。そうしないと家族を安心させることが困難になるからだ。

 その場所で、主人公は「30代の人間は『就職』か『結婚』の、少なくとも一方はしないとおかしい」という「ムラ社会のマニュアル」に初めて出会う。その時、主人公はまだ、この世界に「ムラ社会のマニュアル」なるものが存在していることを知らないし、この意見も、マニュアルとは捉えていない。

 主人公は身体的特徴もコンビニのマニュアルに寄っている。そのマニュアルがたまたま社会と折り合いをつけたものであるため、主人公は何とかこの社会からこぼれ落ちずにやって来られている。

 

(p44)白羽さんとの出会い

 婚活をするためにコンビニのアルバイトを始めた新入りの白羽さんと出会う。読んでもらえれば分かるけれど、白羽さんはとにかく「どうしようもない男」だ。コンビニのバイトを、「婚活のため」と言い切り、それ以外の目的で当たり前のように働く人を見下している。「コンビニのバイトなんて笑」と。

 このシーンで初めて、コンビニ店員の誓いの言葉が出てくる。『私たちは、お客様に最高のサービスをお届けし、地域のお客様から愛され、選ばれるお店を目指していくことを誓います』
 この言葉に対し、白羽さんは「宗教みたいっすね」と呟く。主人公は「そうですよ」と心の中で答える。

 同じようなパターンのやりとりは、幾度となく出てくる。そして、主人公の人となりを面白おかしく描いてくれる。
 それはつまり、「感情面での理解が追いつかない」物事を、すんなりと「理性面で理解している」ため、「だから、そう言ってるじゃん!」と返してしまうような人物像だ。いたいた、こんなやつ笑

(p58)妹と過ごす休みの日

 このシーンで重要なポイントは三つだ。一

 一つ目。まず、主人公はこのシーンで初めて赤ん坊を見つめる。後々、コンビニという空間そのものをクベース(生まれた直後の赤ちゃんが入れられる保育器)と重ね合わせるシーンに繋がる。

 二つ目。主人公は周囲の人間から立ち入った質問をされるのをめんどくさがる。そして、それから逃れるための便利な言い訳を妹に考えてもらっている。これまで使っていた言い訳を更新する必要を感じているのだ。

 三つ目。これは二つ目とも絡んでくる。主人公がどうして完全な「コンビニ人間」になり切ることができないのかという理由に絡んでいる。
 自分の生き方を完全に割り切り、「別にいいじゃん」と思えたらいいのだが、そうすると家族が悲しみ、そのことが「不本意」だ。
 主人公は感情の無い存在ではない(個人的には、ここを見落として書かれた書評が多い気がする)主人公には「本意」と「不本意」がまるで二進法の記号のように存在し、それぞれ、「家族を喜ばせること」と「家族を悲しませること」に対応している。

(p62)出勤日

 このシーンで重要なことは二つだ。

 一つ目。コンビニ内で客を注意して回るおかしな客が、排除される様子が描かれる。「ここは強制的に正常化される場所なのだ。異物はすぐに排除される」
 この事実は後に白羽さんが排除されることのバックグラウンドになるとともに、密かに主人公が排除される可能性を示唆する。主人公の場合は、コンビニ内では正常な存在だが、ムラ社会のマニュアルに支配されたこの世界全体で見れば、正常でない存在であり、排除され得る。そして、そのことは家族を悲しませることになる。

 二つ目。コンビニからも、ムラ社会からも排除されそうな存在である白羽さんの異常性が語られる。異常性、というよりもその人となり(どうしようもなさ)を具体的に描いていると考えるべきか。
 主人公には特に一般的な倫理観がないので、差別感情に対する嫌悪感はない。(仮に自分自身が被差別対象だとしても)
 ただ、興味深いだけだ。なぜ興味深いのかというと、「人間という感じがする」からだ。
 そして、そういう白羽さんの異常性を理解した主人公は一言、「修復されますよ?」と警告を発する。

 このシーンでの主題とは少し離れるかもしれないが、「差別感情」についての考察が興味深く書かれている。差別する人間には二種類がいる。内側から湧き上がる動機により差別している人間と、ただ、周囲の人間が口にする差別的な言葉を再生する人間だ。白羽さんは後者であり、自動機械のように言葉を復唱する。この点で白羽さんと主人公は似たもの同士だ。
 そして、ますますこのシーンの主題から離れていくのだが、この場所を読んだとき、僕の頭にはトルーマン・カポーティの『ティファニーで朝食を』が思い浮かんでいた。
〜〜〜〜〜
「人は誰しも、誰かに対して優越感を抱かなくてはならないようにできている」と彼女は言った。「でも、偉そうな顔をするには、それなりの資格ってものが必要じゃないかしら」
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 白羽さんが聞いたらひっくり返りそうな言葉だ。


(p74)月曜の朝(出勤日)

 主人公の警告通り、白羽さんは異物としてコンビニから排除される。それに対する主人公の感想は「ばかだなあ」の一言。店全体から、白羽さんという異物が排除されたことによって明るくなる店内。それを見つめた主人公はただ、「私もこんな風に排除されるんだな」と思う。

 このあたりから、店が一つの生物として描かれ始める。店員の入れ替わりを細胞の新陳代謝と捉え、全体として動的平衡を保つという味方だ。福岡伸一先生の「動的平衡」もしくは「生物と無生物のあいだ」を思い出す。

(p77)ミホの家でのバーベキュー

 コンビニの外の世界で、自分が異物であることを主人公は意識し始める。バーベキュー会場で呟かれる「やばいな」という言葉だ。同時に、主人公の家族が主人公に「変わる」ことを求めている。そのことも主人公は薄々と感じとる。
 コンビニの外の世界では「仕事」か「家庭」で社会に属することが正常であることの証であり、そのどちらにも属さず、コンビニアルバイトを続ける主人公は確実に異物になっている。そして、コンビニと同様、この世界は強引に異物排除を行う。主人公に変わって欲しい、と願う家族の思いはそこから来ているのではないか、と主人公は考察する。
 そして、「いつまでもコンビニで働けるわけではない」ということも主人公は考える。いつか、老いによりコンビニ店員として正常に機能しなくなれば、コンビニという世界から排除される。そのとき、主人公はコンビニの外の世界からも排除されるのではないだろうか?

(p84)同日夕方、バーベキュー会場に立ち寄る

 主人公にとって、自分を正常な存在にしてくれる場はコンビニのみ。不安が高まるといつもコンビニに寄るか、その場所を想像する。
 店長に「使える部品」として評価されることに主人公は安堵を覚えるとともに、不安も感じる。今はまだ、使えるというだけのことだからだ。

ここまでのまとめ(後半のネタバレ)

 ここまでをまとめると、起承転結のうち、起、承が書かれている、ということになるだろうか。問題提起がなされ、それに踏み込んだ内容が書かれる。ここから先は「転」だ。主人公がコンビニのマニュアルの他に、実は自分が生きる世界にも「ムラのマニュアル」が存在することを発見する。そして、どちらのマニュアルを選択すれば家族が喜ぶだろうか、と考える。最終的には自分の意思でコンビニのマニュアルを選択する。主人公が初めて主体的になった瞬間でこの物語は終わる。その場所に感動があるだろうか?きっとある。

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