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村上春樹[風の歌を聴け]はこう読むべし!:「鼠」と「僕」は同一人物ですよーーー!!!(新説or珍説)

「こう読むべし!」なんて書いちゃいましたが、「べし」の意味は多様です。「当然」かもしれないし、「可能」かもしれないし、「命令」なのかもしれません、なーんて書いて、まずは逃げておきます(ごめんなさい)。

 最近、手書きで文章を書くというマイブームが訪れていたので、noteからしばし遠ざかっていました。しかし、「これはいかん!!」という出来事に遭遇したので、再び舞い戻って参りました。(こういう時、自分に拡散力がないことが辛くなる、、、もしよろしければ拡散をお願いします。)

ネットで見かけた様々な解釈における致命的な見落とし

さて、冒頭の件。先日、友人と[風の歌を聴け]の解釈を話す動画を撮ってyoutubeに投稿してみました。

 その後、同書籍についての解釈を述べた動画や、ネットの記事等を読んでいきましたが、それらの中に、「鼠と僕が同一人物である」という重要なポイントを外したものがとても多く目についたので、驚きのあまりこの記事を書いています。本当に驚いたのですが、僕が探した限りでは、ネット上に「『鼠』=主人公『僕』が地元に残してきた自分自身の一部」ということをおさえた動画や記事が全く見当たらなかった!!!。本当にびっくりして腰を抜かしそうになりました。(実際にヘナヘナとへたり込んでしまった)

 僕にとってはあまりに自明のことだったので、これまで特に主張してきてはいませんでしたが、今回、初めてその作品の解釈について、他の人と意見が合わなかった理由が分かりました。そのポイントを逃すと、確かに「風の歌を聴け」という作品はストーリーがよく分からない(人によっては”ない”とさえ主張する)ものになってしまうと思います。しかし、「鼠=僕の一部」という点を踏まえると、この物語にはしっかりとしたヒューマン・ドラマがあることがわかります。

 つまり、僕と鼠の対話は、「地元に残してきた自分自身の一部」と「今現在の自分自身」との内面葛藤として読み進めるべきです。

鼠と僕が同一人物である証拠を三つ紹介

 鼠と僕が同一人物である、と言われてもピンとこない方が多いかと思いますので、3点ほど証拠を挙げます。(本当は「証拠」なんていう堅苦しい言葉を使いたくはありません。文学作品は、もっと自由に読むものだと思います泣)
 これらについては上記の動画の中でも語っているので、文章を読むのがしんどい、という方は(まぁ、note上にはあまりいらっしゃらないとは思いますが笑)動画を聞き流していただいても結構です。

・証拠1:ジョン・F・ケネディー

 第六章は、この物語の中で唯一、視点が「鼠」になっています。その鼠が女の子と会話をしています。もし、お手元にこの作品がありましたら、ぜひその章だけでも読み返していただけましたら、と思います。
 章の最後。鼠の「人間は生まれつき不公平に作られている」という発言に対し、女の子が「誰の言葉?」と尋ねます。ここで鼠は「ジョン・F・ケネディー」と答えます。

 そして第九章。この章は、先ほどの女の子が泥酔状態から目を醒した場面と考えられます。女の子は昨晩の会話の内容を(そして、そんな会話があったということすらも)すっかり忘れてしまっています。そこで、「僕」に「何を話したの?」と尋ねます。そこで「僕」は「ジョン・F・ケネディー」と答えます。

・証拠2:おまわりに殴られる

 「僕」も「鼠」もおまわりに殴られています。これが証拠として弱いのは自覚していますが、それでも紹介したのは、「風の歌を聴け」という作品を通して読むと、このような、「僕=鼠」ではないか?と匂わせるような共通点があちこちに散りばめられている、ということを言いたかったからです。その具体例として、今回は「二人ともおまわりに殴られている」という点を挙げさせていただきました。ぜひ、読み返す機会がありましたら他にも探してみて欲しいです。

・証拠3:本の表紙。「HAPPY BIRTHDAY AND WHITE CHRISTMAS」

 いきなりですが、39章から引用させていただきます。

 鼠はまだ小説を描き続けている。彼はその幾つかのコピーを毎年クリスマスに送ってくれる。(中略)
 原稿用紙の一枚めにはいつも、
「ハッピー・バースデイ、
 そして
ホワイト・クリスマス。」
 と書かれている。僕の誕生日が12月24日だからだ。

とある。そして、(これは知る人ぞ知る話なのだが)この「風の歌を聴け」という小説の元々のタイトルは「HAPPY BIRTHDAY AND WHITE CHRISTMAS」であった。その名残が表紙絵の一番上の部分に残っている。

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 つまり、この小説は「鼠」が「僕」に宛てて書いたものと読むこともできるし、「僕」が書いたものである、というふうにもとれる。何せ、「鼠」と「僕」は同一人物なのだから。

鼠と僕が同一人物であることを踏まえた上で、ヒューマン・ドラマ的な内容を書き出す。

 あくまで主人公「僕」視点で出来事を整理していこうと思います。村上春樹はみなまで書かない作家なので、その部分を僕が露骨に書き著してみようというわけです。(ごめんなさい。本当なら僕だってこういうことをしたくはありません泣)


シーン1:地元に帰省し、馴染みのバーに行く。そこで女の子と知り合う。

シーン2:紆余曲折を経て、その女の子と仲良くなる。主人公はその女の子のことを好きになる。

シーン3:どうも、その女の子が誰かの子供を妊娠しているらしいと感づく。そして、その子が中絶すべきかどうか決めかねていることが分かる。

シーン4:好きになった女の子が、主人公の目の前で中絶を決意。理由は経済的なもの。

シーン5:主人公とその女の子が結婚すれば、その子は中絶せずに済む。主人公はスーツ&ネクタイまで締めて、プロポーズしにいこうかと迷う。

シーン6:迷った挙句、主人公は何もしない。

シーン7:その女の子は予定通り中絶。

シーン8:中絶した女の子と再び会う。主人公はその子を抱きしめるのだが、致命的な罪悪感(のようなもの)がどうしても拭えない。

シーン9:結局、女の子とは別れる。(ほろ苦いラスト)


 さて、どうだろうか?「風の歌を聴け」にはこのようなヒューマン・ドラマが実はあったのです。「ほんとかよ??」と疑問に感じてらっしゃる方は、ぜひ、読み返してみることを勧めます。これらの細かい解説については、また別記事で書こうかな。(そのうち)

おわりに(お詫びも含めて)

 ここまで、ひたすら勢いに任せて書き走ってしまいましたが、ここいらで少しばかり落ち着こうと思います。

 ネットの記事を眺めた限りでは、おそらく、この小説の読者の95%くらいまで(あるいはそれ以上?)は、主人公「僕」と「鼠」が同一人物である、という点を逃してしまっている気がします。であれば、そうした読者の方々は、この小説のストーリーに関して、「よく分からない」という思いを抱くことになるかと思います。

 僕は、そうした読者を否定しているわけではありません。そうした人たちは、この小説に対して、「よく分からないけれど、なんか好き!」という感想を抱くことになるかと思います。そうした在り方こそ、僕が最も羨ましく思うものです。

 恋愛でもそうですが、人が何かを好きになるとき、その対象の隅々を理解した上で好きなる、というわけではないと思います。「よく分からないけれど、なんか好き!」という感性に従って一歩を踏み出すものではないでしょうか?(違ったらごめんなさい)

 だから、この小説に対しても、「よく分からないけれど、なんか好き!」というのもアリだと思います。この記事を読むことで新しい側面を知り、ますますこの小説のことを好きになってもらえたらとても嬉しいです。

「なるほど、自分の好きな人には、こういう側面もあったのか!ますます好きになった!」

というふうになってもらえたらな、と思います。

 また、ネット等に挙がっている解釈を否定したい、という意図もありません。私が冒頭にて「これはいかん!」と述べたのは、私がここに挙げたような視点が、「ネット上に存在しない」ように見えたからです。一つくらい、こうした解釈があってもいいものではありませんか?

 そして、これほどまでに誤解を受けながらも、読者に「なんか好き!」と思わせる作家、村上春樹の凄さを改めて思い知りました。

あとがき

 最後に、どうして私は「鼠=僕」ということに自然に気づけたのか、ということを書きます。

 それは、私もまた「小説を書く人間だから」という点に尽きるかと思います。

 私は文字記号の扱いを覚えるとほぼ同時に物語を書いてきました。そうした人間にとって、自分の内側にいる人間と対話することなんて、日常茶飯事です。(自分の内部にあるイデアが形をとり——受肉し——物語の中で立ち振る舞う、なんてことは村上作品においては当たり前のことではありませんか?)

 だから、私はすんなりと「僕=鼠」であることを受け入れて読むことができたのだと思います。

 皆様も、ぜひ、小説を書いてみてはいかがでしょうか?

※最後まで読みいただきありがとうございます。疑問点や批判も含め、コメントは大歓迎です。ぜひ、お気軽にお願いします。

(おわり)

 


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