なんにもないけどまちがいなく去年より豊かだ
あけましておめでとうございます。
誕生日もそうですけど、「年またいでおめでとうってなによ?」ってずっと思ってたのですが、去年から今年ほど「おめでとう」の意味をかみしめることはなかったです。
去年の元旦は「ああ、もう無理だ」と思って実家を出たときで、もう絶望でしかなく。だから余計にそう感じるのかもしれません。
そんなボロボロの状態で梅田に出て、まだお店もなんにも開いていない中、半べそでフラフラとたどり着いたお初天神で引いたおみくじが「大吉」。
意味わかんなかったんですよ。なんでこんな状況なのに「大吉」なんだって。
でも1年経ってみて「ああ『大吉』だったなぁ」と。
親も妻も一般的に大事だと思われていて、それを大事だと思いたいのは当たり前のことで。でも残念ながら僕にとってはそうでなかった。
適応障害になっても「筋通せ」とか「働け、いや働かんでいいから死ね」とか言われる・書かれるし、せめてと思って優しく応対したら「居させてやってるんだから当たり前」「優しい俺ってカッコいいと思っててキモい」と思われる。
そんな奴らを大事にできるはずがない。
「親・妻を切り離す」と書くと薄情な感じが出るけど、ここまでのことを読んだらそりゃ親でも妻でも切り離すでしょと。
それがわかり始めたのがほんとここ最近。
いろいろ失ってから自分のまわりに来てくれた人たちが、同じ感じだったら「がんばらなあかんな」と思うけど、会ったどの人も優しくて、そして憐れむでもなく寄り添ってくれて、かと言ってべったりでもなくそっともしてくれて。ありがたかったし、だいぶ力をもらった。
それで自分も強くなった。
人から理不尽に突きつけられる窮地と、自分でわかってて受け入れる窮地があると思っていて、人から理不尽に突きつけられる窮地には耐えられないけど、自分でわかってて受け入れる窮地は自分でなんとかしていくしかない。
それを思うと戦争や戦闘は理不尽に突きつけられる窮地の極みだなと思っていて、ほんとこの世の中からなくなってほしい。
これから生きていくにあたって、自分で選択していけば、窮地に陥っても自分でなんとかしようとできる。
家がないなら、しんどさに応じてホテル・温浴施設・ネットカフェ・24時間営業のマクドを使い分ければいいし、お金がないならなにかできることでお金稼げないか考えたり、タイミーやおてつたび、Uberとかで工面することだってできる。
親・妻と居たときにまとわりついていた自分の呪縛みたいなものがパリパリと剥がれていく。
あの人たちはすごいともありがとうとも言わず、なんなら受け入れすらせず、さも当たり前のようにあしらってたけど、そんな環境の中でも惜しみなく出し続けやってきたから、自分はなんだってできるのよ。
それがいま関わっていただいている人を通して自分の自信につながってる。
切り離すこと自体はかなり辛かったけど本当に『大吉』だった。
自分を取り戻して、自分でやりたいことを選択していく限り、たとえなんにもなくたって去年よりまちがいなく今が豊かだ。
↑去年の元旦のツイートと↓今年の元旦のポスト。今のほうが明らかに豊か。
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