見出し画像

「これまで」になにを置いていき、「これから」になにを持っていくか。を問われている気がする。

ひとつ前のnoteを、

「これまで」になにを置いていき、「これから」になにを持っていくか。
それをわたしたち自身がきっと考えていかなければならない機会なんだとおもいます。

ということばで結びました。


わたしの場合、あたまのなかでモヤモヤとしたものがすでにあり、その正体をわたし自身が知りたくて言語化してみる、ということがnoteの記事やZINEの本文になったりしていたのですが、

前回のこのことばを見つけてから、逆にそれについて考えざるおえない、頭から離れなくなってしまう、ということが起きていました。


ちょうどふたつまえのnoteが、

似たような心持ちでひねり出した記事だったのですが、この記事を読んだ方から「こういう、悩んでる記事ほうがいいよ」というお褒め?笑のことばをいただき、

今回の記事も似たに結論もなにもない感じになるので、お許しいただきたい。



わたしの自粛生活はちょうど約2ヶ月くらいになろうとしています。

当初は花粉もまだ飛んでいたし、こちらの記事にも書いたとおり

そもそも毎年この時期は梅も桜も見に行かずひたすら家に篭る、という生活をしていたのです。 なので当初は割と余裕というか、毎年の恒例行事のような心持ちでいたのです。


ところがまわりの環境は異なります。 おおきなところで言えば、やはり飲食店。

わたしのごはんはほぼ100%中食外食で構成されているため、すこしづつ選択肢が減っていく、あるいは店内での飲食を控えられるお店さんが増えていく状況はこれまでの自粛生活とは大きく異なるものでした。

そしてその環境の変化によって、わたし自身の心持ちも大きく変わっていきました。


一番最初に訪れた変化は、これまで通っていたおきにいりのお店さんの状況を積極的に調べる自分がいたことです。

これまでであれば開いてて当然、行けばやってるだろうというスタンスでいて、お店の名前というより、場所で覚えているような人間だったのです。

それが、あのお店さんは開いてるかな?といったことにはじまり、無事にお店を開けれているのかな? 臨時休業にできたのかな? と考えていった先に、あのお店のひとたちは大丈夫かな? とはじめてお店のなかの、ひとのことを意識しはじめたのです。

この気持ちの変化に気づいたときには結構驚いたというか、二重で驚いたのですが、なんせお店のひとのことを意識したのと同時に、これまではお店のことは考えていても、お店のひとのことまでは意識したことがなかったんだ!ということがわかったからです。


その後の自粛生活でさらに訪れた変化は、これまで知り合ったかたがたやしばらく会っていなかったともだちたちが「〇〇のお店にいる」と昔聞いていたはずの所在を、急に思い出してきたことです。 自営のかた、とくに飲食店を営業されているかた、食料品店に勤められているかたがたのことを、急に思い出しました。

そしてそのお店のことを調べ、開いていたら訪ねていくようになりました。 訪ねて、特になにをするわけではありません。 ただ単純にお買い物をして、帰るだけです。 ともだちが忙しそうにしていたら、尚更無理に声などもかけず、ただただそのお店のものを購入して帰る、それだけ。 もちろん、気づいてもらえたら、話をしたりもしますが。


この変化はなんなんだろう? ともだちが勤めているお店でのお買い物の帰り道に考えてしまいました。


これら以外でもわたしの消費活動はこの約2ヶ月のあいだにどんどん形を変えていきました。

これまでサクッと食事を済ませたいときに通っていたチェーン店などには行かず、近所の道端でたまたま気になったお店でテイクアウトしてみたり、余っているから消費してほしいといった情報が流れてきたら、歩いて行ける範囲でそこに向かってみたり。


とてもザックリとした言い方なのですが、
わたし自身がなにを選ぶかをすごく考えて選ぶようになった
のです。


これまでのとりあえず済ませるためにしていた選択は大変楽でした。 それはきっと余計なことはなにも考えなくてよかったからです。


でもいまは違います。

牛乳が消費できないと聞けば、ヨーグルトを大量に購入してみたり。 いちごが余ると聞いたら、普段はあまりたべないいちごを購入してみたり。

物事の先にいる、実際に困っているひとのことを勝手に意識してしまっているのです。



はたしてこんなにも物事の裏側にいるひとの存在に思いを馳せたことがあったでしょうか?

こんなにも、会ったこともないひとのことを考えたことがあったでしょうか?

こんなにもひとのことを近しく感じたことがあったでしょうか?


以前書いたnoteでこんなことをわたしは言っていました。

特殊な状況というのは、それ自体がリトマス試験紙になり得ます。 平常時には見えなかった本当のことが見えたりします。 大変なときにこそそのひとが取り繕っていたものが剥がれ落ち、むき出しの本心が見て取れたりするものです。


これはきっと自分自身に言っていたことなんじゃないかと、いまはおもっています。

「これまで」になにを置いていき、「これから」になにを持っていくか。を問われている気がする。

そしてそれを決めるのは、これからのわたし自身の選択と行動次第なのではないかと。

いいなと思ったら応援しよう!

足下研/スニーカー文化研究家
サポートいただいたものはすべてnoteの記事作成のために活用させていただきます。