わかりやすい、でいい?
普段、人に「伝える」場面に多く接していると色々と感じることや反省することが多々あります。
「わかりやすい」
実習や実技の授業では、座学でやったことを実践していくわけですが、聞いているだけではわからなかったことやピンとこなかったことが実技だとわかりやすい!となります。
これは自分自身のデータであったり、測定の過程などからも確認できるから。入ってくる情報量や情報の質も最初に入ってきたものと違いがあるから。
担当する側も、相手の色々な反応が見られるからそこにさらに情報を付加できる。
だから実技をやっていくことは大事だけれど、
実技だけになるってのは違うわけです、当然。
よくわからない、と思っていた座学の時間の情報も本人の意識とは別で頭の中にあるし、それらが実技などによって繋がっていくことに貢献しているんじゃないかな。
「この先生の方がわかりやすい」
これも、どなたかが「わかりにくい部分」や「難しいこと」を担っていただいていて、その情報を先に提供してくれているから、あとに続く者がそれも含めて説明していることが響いたりする。
わかりやすくするために、、と思っている工夫は、他の方によって支えられている。
先日講師室でこんな話というか、互いの科目の立ち位置を確認できたのはとてもよかった。経験豊富な先生方に助けられてます。
「あの人たちはわかってくれなかった」
きっと説明した時点で何かが足りなかったんだろうし、その経験を経て、次に説明した時には改善されていたかもしれない。
その間に工夫したかもしれない。
熱量は最初の方が直接伝わったかもしれない
時短
時短で見ることができるのは確かに効率いい。
映画や番組の予告だってある意味その類で、それを見てから決めることだってある。でも、「時短で見れる」は選択肢の1つであることが大事で、「時短で見るしかない」とはワケが違う。
提供する側が「時短ブームだから」「時短じゃないとみてくれない」に振りすぎるのは危ない。
これはつまるところ、「上澄みだけを掬う」ということとも共通するんでしょうね。色々なものの発達によって以前よりも精度高くできるのものあるけれど、やはり違いがある。
みんな時短で何かを得た感触を持つから掘り下げたら色々なことがもっとわかるから、それだけでチャンスが広がるんだろうな
という想いと、時短の効率性が闘う日々。
そんな社会を自分たちもつくってきた
わかりやすさとか手軽さに振って色々提供した先で、置いて行かれたものを「今の若者は、、、」「あの人たちは、、、」と嘆いているのはなんか違う。その社会が形成されていく過程には自分たちだってしっかり関わっているんだから。
トレーニングでもその時々の流行があって、それに振り切るとしばらくした後に消し去ったものがボトルネックとして表れてくる。ゼロかイチかじゃなくて、もっと割合で考えていかないとね。ゼロにしてしまったらそこから動き出すことにはまた大きなエネルギーがいる。
消し去らないようにする、そんなところが自分自身が断捨離が苦手な要因かもしれません。
読んでいただきありがとうございます。日々の雑感やスポーツ、運動にまつわる数字を眺めてまとめています。普段はトレーニングサポートや講義を行なっています。